今日の話題は、「子供をいかにしてバイリンガルに育てるか。」
長女(19歳)も次女(17歳)もロサンゼルス生まれ、ニューヨーク育ちのアメリカ人。彼女たちの人生で日本での生活は5年半のみで、その期間も調布市野水にある「ザ・アメリカ・スクール・イン・ジャパン(ASIJ)」に通っていましたので、日本の学校教育を受けたことはありません。例外は、夏休みの2週間程度、日本の小学校に体験入学をさせたことです。
したがって、我が家では、子供たちをバイリンガルにするためには、如何にして彼女たちに日本語を習得させるかが問題でした。
アメリカ市民である私の娘2人が、日本語を話せ、読み書きができるようになった要因を列挙します。
①アメリカで生活している期間であっても、家では両親が日本語を使用したこと
この点は、非常に重要だと思います。我が家では、娘たちは学校では英語の世界に浸っているので、家では、できるだけ日本語での会話を死守しました。子供が小さい時から親が日本語で会話し続けると、少なくとも日本語のヒヤリング能力は発達しますし、うまくいけば、スピーキング能力もかなり上達します。
私の知り合いの中には、とてももったいないご家庭もいます。
ニューヨーク市在住のある夫婦は、お父さんはメキシコ系アメリカ人、お母さんは日本人で、家庭では、英語しか話さなかったので、お子さんは全く日本語ができないそうです。それどころかスペイン語も会話程度しかできないそうです。言葉は武器なので、読み書きができなくても、少しでも日本語が聞けて話せると、子供の将来にとり、相当な武器になると思うのですが。
ニュージャージー州在住の別の夫婦は、お父さんはデンマーク人、お母さんは日本人で、家庭ではお父さんは必ずデンマーク語、お母さんはデンマーク語か英語しか話してこなかったそうです。お母さんは、デンマーク語も英語もネイティブ並みに話せます。したがって、子供たちが話せるのは、デンマーク語と英語のみ。これだけでもすごいことですが、個人的には、本当にもったいないと思いました。お母さんが家庭で日本語を話していれば、今頃お子さんたちは、3ヶ国語を話せる「トライリンガル(trilingual)」になっていたはずです。お母さんが日本語を話さなかったのは、夫婦でデンマークに住んでいた頃、お母さんがネイティブ並みにうまいデンマーク語で生活できることに幸せを感じていたからなんだそうです。
もちろん子供の教育は、それぞれのご家庭次第です。しかし、この2人のお母さんたちは、家庭で日本語を話さなかったことに、今では後悔しています。
駐在員家庭にありがちな知り合いの例を一つ紹介します。ロサンゼルス時代の駐在員の知り合いで、お子さんが4歳と2歳で、2年間しかロサンゼルスいなかったにもかかわらず、帰国子女でもないその駐在員の奥様は、お子さんたちにはほとんど日本語を使わず、カタコト英語というか、カタカナ英語を子供たちに喋っていたそうです。家族ぐるみの集まりで話した時、私たちに対しても、「マクドナルド」のことをなぜか「昨日、子供たちと「ミックドゥナルド」に行ったんだけどぉ」と話し、私たちは呆気に取られた思い出があります。
②長女が5歳から8歳まで、次女が3歳から6歳までの期間、ニューヨーク市マンハッタンで毎週土曜日に日本語補修校に通ったこと
娘たちが、さまざまな言語を柔軟に受け入れることができる時期に、毎週一回でも日本語補修校に3年間近く通えたのは、娘たちの日本語能力が発達する上でよかったと思っています。日本語補修校は、日本語学校ではなく、日本の義務教育の授業を受けますので、娘たちにとってはハードルは高かったと思いますが、日本人のクラスメートと話せたり、日本的な運動会などもあったりして、日本の文化にも接することができ、娘たちは楽しんだようです。
③長女が8歳から13歳まで、次女が6歳から11歳まで通ったアメリカン・スクールで、毎日、日本語の授業を受けたこと
これは本当に良かったと思います。ASIJの日本語の先生は、国語の教員免許を持ち、日本の学校で教鞭をとったことがある先生たちでした。特に長女の日本語のクラスは、最も高いレベルのクラスだったので、宿題も多く大変だったようですが、そのおかげで今では日本語の読み書きができ、今となっては感謝しているようです。
④長女が8歳から13歳まで、次女が6歳から11歳まで、日本で生活したこと
ASIJでは、英語で授業を受け、アメリカ人の友達と遊ぶ日々でしたが、娘たちは、自分たちだけで京王線や京王バスに乗って通学し、家では日本のテレビ番組を見たり、マンションのお隣さんには年齢の近い日本人の娘さんがいたため、週末にたまに一緒に遊んだりしていました。このように学校外で日本語漬けになったことも、娘たちの日本語能力が発達する上で良いことでした。その他、長女も次女も日本人のピアノの先生にピアノを習ったり、次女は、日本人の先生の絵画教室に通いました。
⑤長女が8歳から13歳まで、次女が6歳から11歳まで、漢字検定試験を受け続けたこと。
受験する漢字検定のレベルは、それぞれ2学年下のレベルでしたが、目の前に目標を掲げることで、少し頑張って漢字を覚えてもらうつもりで挑戦させました。あまり無理はさせず、気楽に受験させました。
⑥長女が13歳、次女が11歳の時にニューヨーク州ライ市に引っ越したが、週一回、オンラインの日本語のクラスを、長女は15歳まで2年間、次女は15歳まで4年間、受けたこと
このオンラインの日本語クラスは、日本の新聞でも紹介された教えるのが上手な有名な先生でした。学校の授業と宿題が大変になる中で、日本語を忘れないようにとの思いで受けさせました。長女は、高校でのクラブ活動などが忙しくなったため2年間で辞めましたが、次女はライ中学3年間とライ高校1年間の4年間、受け続けました。
以上が、娘たちが日本語を話せ、読み書きができるようになった経緯です。ご家庭の事情はそれぞれ異なるため、何が正しい方法であるかは、各ご家庭で検討してご判断されるでしょうが、ご参考までにしたためました。
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