Monday, March 28, 2022

ワシントンDCの桜

 先週、ワシントンDCのポトマック河畔(タイダル・ベイスン)の桜が満開でした。3月22日(火)夕方と3月25日(金)早朝に鑑賞してきました。

ポトマック河畔の桜並木は、世界の名所の一つになっており、この桜を堪能するために、多くの人で賑わっていました。鑑賞している人々は老若男女で多様性に富んでいました。同じもの(桜)で感動している彼らの姿を見ると、桜が本当に人々を結びつけているんだなと感じました。

当地の人々を感動させているポトマック河畔の桜は、110年前に当時の尾崎東京市長からワシントンDCへの贈り物であることは有名です。1910年に2000本の桜をワシントンDCに贈りましたが、到着した時には、桜が害虫に汚染されており、焼却を余儀なくされました。

その2年後の1912年、尾崎東京市長(兼衆議院議員)は、再び桜3020本を贈りました。横浜からシアトル経由で1912年3月26日にワシントンDCに到着。翌3月27日にポトマック河畔で式典が行われ、ヘレン・タフト大統領夫人と日本大使珍田(ちんだ)子爵夫人最初の2本の桜の植樹を行いました。この日から数えて今年は110年というわけです。実は、この2本の木は未だに生きており、それは美しい花を咲かせていました。

このように、多くの人々を感動させるポトマック河畔の美しい桜並木は、日米親善の生きる証でもあります。

世界に目を向けると、現在、ウクライナは大変なことになっています。桜の美しさを鑑賞できる平和のありがたみを感じるとともに、全世界の人々が安心して桜の美しさに感動できるような世界になることを願うばかりです。

 





















Saturday, March 26, 2022

アメリカで1人で生きていく準備

妻は、11月23日に永住者としてアメリカに入国。本年8月からは、メリーランド州から少し離れたある州の私立大学の大学院に通う予定です。一方で、私は、本年夏には東京に異動になる可能性があります。


私が東京に転勤で帰ることになると、妻は、本年8月からアメリカで1人で生きていくことになります。そのためには、銀行口座開設、アパート契約、光熱費の契約、テレビやインターネットの契約、免許証の取得、車の購入、納税手続きなど、全て自分で行う必要があります。


妻とは、結婚後、カリフォルニア州ロサンゼルス市1回、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン1回、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ライ市1回、メリーランド州モントゴメリー郡ベセスダ市1回ほど一緒に生活してきましたが、賃貸住宅、車、光熱費、インターネットなどの契約は、全て私名義で行ってきました。


しかし、本年8月からは違います。妻は、全て自分の名義で行う必要があります。


2002年にロサンゼルス市に住んでいた頃、妻はソーシャル・セキュリティ・カード(=ソーシャル・セキュリティ番号)を取得しました。同じ時期に、クレジット・カード(アメリカン・エクスプレス・カード)も自身の名義で取得できました。それ以降、妻は、買い物は全部自身のクレジット・カードを利用するので、妻のアメリカにおけるクレジット・ヒストリーはかなり高い評価となっています。


今年に入り、妻は、自身の銀行口座を開設しました。その際、銀行が発行するクレジット・カード(VISAカード)も取得しました。これでアメリカのクレジット・カードは、AMEXとVISAカードを持つことになり、生活には困らないでしょう。


今週、私の名義となっている2台の車のうち1台(2010 Lexus RX 350)を妻の名義に変えました。まず、3月21日(月)にメリーランド州のMVA(Motor and Vehicle Administration)が指定する修理工場で車検を行ってもらいました。車検後、所要経費262.78ドルを払い車検証をもらいました。


3月24日(木)には、メリーランド州ケンプ・ミルにあるMVA(Motor and Vehicle Administration)に行きました。そこで、車両登録申込書、私の車両権利書(Vehicle Title)、車検証、妻の免許証を見せ、必要な手続きを行いました。妻は、最後に345ドルを支払い、その場で新しいメリーランド州のナンバープレートを入手しました。


345ドルの内訳は、車両権利関連費(Title Base Fee):100ドル、車両登録料(Registration Fee):187ドル、図柄入りナンバープレート(Vehicle Plate Fee):20ドル(注)、税:38.40ドルです。

(注)今回妻が選んだナンバープレートは、チェサピーク湾の図柄が入った特別なナンバープレートで、このプレート取得のために払った追加料金20ドルは、チェサピーク湾の環境を守るためのチェサピーク湾基金(Chesapeak Bay Trust)に寄付されることになります。


今回、車の所有権を私から妻に移行するだけで、計607.78ドルもかかったことになります。しかし、妻は、グリーンカード、ソーシャル・セキュリティ番号、メリーランド州の免許証、銀行口座に加え、自分名義の車を持ったことになり、今夏からアメリカの大学院に通う準備は整ったと思います。


Thursday, March 24, 2022

アメリカの大学のスプリング・ブレイク/ Spring Break(≠ 春休み)

長女は今週から大学が「スプリング・ブレイク」に入り、今週月曜(3月21日)から大学の親友の両親が所有するハワイ州オワフ島東部にあるカイルア市の別荘で、大学の友達8人と優雅に過ごしています。ビーチが目の前にある大きな別荘で、敷地内に両親の家とは別の「離れ」のゲストハウスが二つあり、それぞれのゲストハウスは寝室が4部屋もあるそうで、信じられないくらい広大な敷地なんだそうです。お隣さんの別荘は、なんと元プロレスラーで今ではハリウッドスターになったドウェイン・ジョンソンさんの別荘とのこと。

次女は、高校の「スプリング・ブレイク」中は寮から出たいということで、ハワイ州オアフ島ホノルルのホテルで同級生と過ごしています。長女は、ボストンから到着した3月21日の夜は、次女のホテルに泊まりました。

さて、この「スプリング・ブレイク」ですが、アメリカの大学は3月後半に1週間ほどある休みで、アメリカの大学生にとっては単なる「春休み」とは異なる意味を持っています。


「スプリング・ブレイク」は、第二次世界大戦前にアメリカの北東部のコルゲート大学の水泳部がフロリダ州フォート・ローダーデールに合宿したことが始まりのようです。「スプリング・ブレイク」の場所は、暖かい場所である必要があるので、フロリダ州の都市に北東部や中西部の大学生が集まるのは、至極自然なこととなります。


1960年、フォート・ローダーデールを舞台にした映画「Where the Boys Are(注1)」が公開され、「大学の春休みをフロリダ州のフォート・ローダーデールで過ごすことが、粋なスプリング・ブレイクの過ごし方」というイメージが出来上がったのでしょう。

(注1)https://youtu.be/tKyZKNNWngo


大リーグのニューヨーク・ヤンキースも1962年から春季キャンプをフォート・ローダーデールで行うようになりました。ヤンキースは、この街での春季キャンプを1995年まで続けました。


カリフォルニア州の大学生にとり、フロリダ州は遠すぎます。また、ビーチは日頃から行っていることもあり、彼らが選んだ「スプリング・ブレイク」の場所は、海のない砂漠の街「パーム・スプリングス」でした。1963年に「Palm Springs Weekend(注2)」という映画が大ヒット。西海岸の多くの大学生が「スプリング・ブレイク」は「パーム・スプリングス」を目指すようになります。

(注2)https://youtu.be/2SBu08Xdb7k


70年代に入ると、ヒッピーなどリベラルなアメリカの大学生が、フロリダ州でより多くの自由や開放感を求めるようになりました。


80年代には、「The Beach Girls (82年)」、「Spring Break (83年)(注3)」、「Where the Boys Are (84年)」などの映画が公開され、「スプリング・ブレイク」=「大学生がフロリダ州でパーティ三昧で弾ける」とのイメージが出来上がりました。

(注3)https://youtu.be/d02f2Sx88u4 


私が経験したスプリング・ブレイクは、スタンフォード大学留学中の86年は、カリフォルニア州「パーム・スプリングス」、USC留学中の90年も「パーム・スプリングス」、インディアナ・ロースクール留学中の91年は、フロリダ州「パーム・ビーチ」で過ごしました。その理由は、「パーム・スプリングス」も「パーム・ビーチ」も、留学中の大学で親友になったアメリカ人の親が広大な別荘を持っていたからです。今、ハワイ州オアフ島カイルアに滞在している長女と同じです。「スプリング・ブレイク」で私がやったことは、毎日昼すぎに起きて、次の日の明け方までビーチやプールでお酒を飲み続けたことでした。今となってはよい思い出です。


さて、時代は変わり、最近の「スプリング・ブレイク」の人気の場所はどこなのでしょうか。90年代までは、上述の通り、カリフォルニア州「パーム・スプリングス」かフロリダ州「フォート・ローダーデール」、「デイトナ・ビーチ」、「パナマ・シティ」などでした。


今では、「スプリング・ブレイク」を過ごす場所も多様になっているようです。上述した場所以外では、フロリダ州「タンパ」、「マイアミ」、ネバダ州「ラスベガス」、ルイジアナ州「ニューオリンズ」、テキサス州「サウス・パドレ・アイランド」などが人気のようです。外国では、メキシコの「カンクーン」、「カボ・サン・ルーカス」などでも多くの学生が「スプリング・ブレイク」を過ごしています。


長女も次女も、たまたまハワイ州オアフ島にいます。「スプリング・ブレイク」の最後の夜となる今週の土曜は、長女は次女のホテルで姉妹で一緒に過ごすようです。


親としては、娘たちが、この休みで英気を養って、残りの学期を充実したものにしてほしいと願うばかりです。

Friday, February 25, 2022

妻、アメリカの永住権取得!(その16:「グリーンカード」取得の苦労(その3))

アメリカ国務省が主管する「移民多様化ビザ抽選プログラム(Diversity Immigrant Visa Program)(俗称「DV抽選永住権プログラム」)を通じてアメリカの永住権を取得した妻は、2021年11月23日に米国ハワイ州ホノルルに永住者として入国しました。

入国後、妻は実物の「グリーンカード」が郵送されるのを楽しみに待っていましたが、2022年1月7日、アメリカ移民局から「移民ビザの費用220ドルを払っていないので早急に支払うように。右支払いがない限り、妻の「グリーンカード」は発行しない。」との連絡があり、私たちは混乱しました。妻は、2021年9月29日に東京で移民局に対し移民ビザ費用220ドルを既に払っていたからです。

そこでいろいろと調べると、妻が東京で支払った移民ビザ費用は、妻の外国人登録番号のアカウントではなく、他人のアカウントに対して支払われたのではないかとの疑いが高まりました。

となれば、2021年9月27日にアメリカ移民局が妻に移民ビザの費用を請求した書類に掲載された妻の外国人登録番号が間違っていたということになります。

焦った私は、アメリカ政府の知り合いに頼んで、アメリカ移民局のAを紹介してもらいました。2022年1月15日、アメリカ移民局のAにメールで事情を説明し、問題解決をお願いしました。アメリカ移民局のAは移民局の担当Bから連絡させる旨述べました。

2022年1月20日、移民局の担当Bから連絡がありました。私が電話で本件について丁寧に説明したところ、担当Bは、問題の本質を即座に理解し、2021年9月27日に妻に移民費用を請求した書類に掲載された妻の外国人登録番号が間違っていたのは、アメリカ移民局の責任であることを認めました。担当Bは、アメリカ移民局内で検討し、問題解決のために努力すると述べました。

2022年1月22日、移民局の担当Bから再度絡がありました。担当Bがうまく調整してくれた結果、妻が支払った移民費用は、妻の外国人登録番号の口座に転送されることなったとのことでした。これにより、妻の「グリーンカード」の発送手続きが整うので、2週間してもグリーンカードが届かなければ連絡して欲しいと述べました。

2022年2月11日、アメリカ移民局の担当Bに電話をし、「まだ妻の「グリーンカード」が届いていない、どうなっているのか」と照会しました。担当Bは、「(妻が)支払った移民費用の転送手続きがやっと3日前に完了した。右手続きに予想外にも時間がかかってしまい申し訳ない。これでグリーンカード発行手続きを進めることができる。2週間程度で届くであろう。」とのことでした。

2022年2月17日、アメリカ移民局の担当Bから、妻の「グリーンカード」の郵送手続きを終えたとの連絡がありました。当初は混乱の極みでしたが、やっとここまで来れたという感じでした。

2022年2月24日、妻の「グリーンカード」が、メリーランド州ベセスダの自宅に配達されました!


   
配達された妻のグリーンカード

           左上に永住者(Permanent Resident)と記されている

           

郵送されてきた妻の「グリーンカード」の有効期限は、妻が永住者としてアメリカの入国した2021年11月23日から、10年後の2031年11月23日までとなっています。

妻のアメリカの「グリーンカード」取得まで、本当に長い道のりでした。

この「グリーンカード」の取得には、

・2019年10月14日にアメリカ国務省が主管する「移民多様化ビザ抽選プログラム(Diversity Immigrant Visa Program)」に応募してから2年4ヶ月、

・2020年6月6日に同プログラムに当選してから1年8ヶ月、

・2020年10月11日に妻が帰国してから1年4ヶ月、

・2021年9月28日にアメリカの移民ビザを取得してから5ヶ月、

・2021年11月23日、永住者としてアメリカに入国してから3ヶ月、

かかりました。


妻は、これでアメリカでいつでもどこでも安心して就職することができます。


長い道のりであった分、妻は喜びもひとしおのようです。

これで私がいつ転勤命令が出てアメリカを離れることになっても、家族としては、妻が将来住む場所が拠点となり、夏休みや感謝祭、クリスマスに娘たちは妻の家に帰ってこれることになります。そういう意味でも本当に良かったと思います。

Thursday, February 24, 2022

妻、アメリカの永住権取得!(その15:「グリーンカード」取得の苦労(その2))

アメリカ国務省が主管する「移民多様化ビザ抽選プログラム(Diversity Immigrant Visa Program)(俗称「DV抽選永住権プログラム」)を通じてアメリカの永住権を取得した妻は、2021年9月28日に駐日アメリカ大使館で移民ビザを取得後、2021年11月23日に米国ハワイ州ホノルルに永住者として入国しました。実物のグリーンカードがなくとも、妻はこの移民ビザでアメリカで働けます。実物の「グリーンカード」は、アメリカに永住者として入国後、3ヶ月から6ヶ月以内にアメリカ移民局より郵送されるそうですが、実際には1ヶ月程度で郵送されることが多いと聞きます。

妻がアメリカに永住者として入国してから1ヶ月半がたった2022年1月7日、アメリカ移民局から妻に対し、「移民ビザの費用220ドルを払っていないので早急に支払うように。右支払いがない限り、妻の「グリーンカード」は発行しない。」との連絡が来ました。

妻は、東京にいた2021年9月29日にアメリカ移民局に移民ビザの費用220ドルを支払っており、領収書も持っています。それなのにこのような督促がきて、我々は困惑しました。

いろいろと調べた結果、アメリカ移民局の「2021年9月27日付の移民費用支払い請求書類」と「2022年1月7日付の移民費用支払い催促書類」に掲載された以下の番号が、それぞれ異なっていました。

●外国人登録番号(Alien Registration number)

●DOSケースID番号

●IOE受領番号

  

        

       2021年9月27日付アメリカ移民局書簡

*アメリカ国務省から移民ビザを取得した者は、アメリカ移民局(USCIS)に220ドル支払う必要がある旨記載されている。

    

      

       2022年1月7日付アメリカ移民局書簡

*アメリカ移民局は、妻が移民ビザ費用220ドルを支払わない限り、妻のグリーンカードを発行できない旨が記載されている。


更に調査すると、妻のパスポートにあるアメリカの移民ビザに、外国人登録番号が記載されていました。その番号は、2022年1月7日付の移民費用支払催促書類に掲載された外国人登録番号と同じでした。

これを合理的に解釈すれば、妻が2021年9月29日に支払った移民費用(220ドル)は、自身の外国人登録番号に対してではなく、他人の番号に対して支払われたということです。

非常に面倒くさいことになりました。

妻、アメリカの永住権取得!(その14:「グリーンカード」取得の苦労(その1))

妻は、2019年10月14日にアメリカ国務省が主管する「移民多様化ビザ抽選プログラム(Diversity Immigrant Visa Program)(俗称「DV抽選永住権プログラム」)」に応募。2020年6月6日に当選。同年10月11日に帰国。2021年9月27日に駐日アメリカ大使館で面接。翌日となる9月28日にアメリカの移民ビザを取得。2021年11月23日に米国ハワイ州ホノルルに永住者として入国しました。そして、2021年12月23日にメリーランド州ベセスダの自宅に戻りました。

永住者としてアメリカに入国できた妻は、アメリカで働く上で何ら制約はありません。妻の移民ビザは1年間有効です。この移民ビザの有効期限内に、いわゆる実物の「グリーンカード」と呼ばれるカードを取得する必要があります。


通常、アメリカに永住者として入国した後、アメリカ移民局より3ヶ月〜6ヶ月以内に郵送されてくるそうですが、多くの場合は約1ヶ月で郵送されるそうです。


ところが異変が起きました。


2022年1月7日、アメリカ移民局から妻に対し、「移民ビザの費用220ドルを払っていないので早急に支払え」との連絡が来たのです。移民局としては、この費用の支払いがない限り、妻の「グリーンカード」は発行しないとのこと。


この移民ビザの費用は、「USCIS Immigrant Fee」と呼ばれ、永住者に係わるファイルの管理、保存、及び永住者カード(グリーンカード)発行に充てられます。


妻は、2021年9月27日に東京にあるアメリカ大使館で移民ビザ取得のための面接を受けた2日後、即ち同年9月29日に移民費用220ドルをアメリカ移民局に支払っています。領収書も保管しています。


これは何かが変です。


2021年11月23日に永住者としてアメリカに入国した妻が、実物の「グリーンカード」を取得するまで、若干の苦労があったので、本件についてしたためようと思います。

Tuesday, February 22, 2022

バイリンガルの育て方(その9:帰国後の英語の維持)

駐在を終えて帰国することになった親御さんは、お子様の英語力の維持について高い関心を持つものです。年齢が低ければ低いほど、お子様が日本の学校に通い始めるとあっという間に英語を忘れてしまいます。

スピーキング力は相手がいなければ衰えていくのは必須です。比較的維持しやすい英語力は、リーディング力とヒヤリング力です。帰国時のレベルの英語の本をお子様に無理のない範囲で読ませれば、リーディング力はある程度維持できるでしょう。実は、英語の小説を読むと、語彙力を増やし、表現力を豊かにし、思考力を高めていけます。それが学力向上にもつながるかもしれません。


ヒヤリング力についても一緒です。知り合いのお子様は、NBAが大好きで、帰国後もNBAの試合やニュースを高校卒業するまでフォローしていたそうです。そのおかげでヒヤリング力は維持できたと聞きます。


このように、親と子どもの努力次第で、英語力を維持することは可能でしょう。ただし、高校受験や大学受験を目指している場合、受験勉強に集中する中で、英語力維持のための時間と努力をお子様がどれだけ確保できるかによって、英語力が維持されるかどうかが決まるでしょう。この点においても親の理解と支援が重要となります。


私の娘2人が、幼少期に漢字検定試験を受けたように、お子様に英語検定試験を受けさせることも良いかもしれません。お子様は、ちょっとした目標ができる頑張るものです。もちろん親がプレッシャーをかけることはご法度です。



バイリンガルの育て方(その8:思春期/反抗期の対応)

在米期間が長くなると、お子様は英語能力を伸ばし、友達も増え、学校生活における英語は全く問題がなくなります。一方で、英語能力が身に付けば身につくほど、お子様が思春期になれば、日本語を拒絶するケースも見られます。反抗期を迎えれば、親との会話も英語しか使わなくなり、親が日本語で話してかけても、理解しているのに英語で返すようになります。

反抗期は誰もが避けては通れない時期です。反抗の程度は、お子様と親との人間関係によると言われています。親の過保護がひどいと反抗もひどくなります。英語しか話さないのは、親への反抗というわけです。


バイリンガル教育において、親の理解と支援が不可欠です。お子様の自主性、考えを認め、肯定すると、成功するケースがあります。


お子様のバイリンガル教育の成功は、親にかかっていると言っても過言ではないでしょう。

バイリンガルの育て方(その7:親の支援は必須)

お子様のアメリカでの適応力には個人差があります。お子様の性格や能力なども要因になりますので、個人差を一般化することはできません。

お子様が幼少期にアメリカに来ると、親御さんは兎にも角にも英語が喋るようになって欲しいとの願望が強いようです。そのお子様が現地校に通えば、数年もたてばスピーキング力はつくでしょう。ここで重要なのは、日本語をいかにキープするかです。多くのご家庭が、家庭内では必ず日本語での会話を貫き通し、毎週土曜に日本語補習校に通わせるのは、そのためです。親がお子様の日本語の教育をおろそかにすると、お子様が英語が上達するにつれ、親とのコミュニケーションにおいて、さまざまな弊害が出てきます。


お子様が高校生になり友達との付き合いが増えると、日本語がだんだんできなくなってしまい親子のコミュニケーション断絶が起きる可能性もあります。親とコミュニケーションができない子供は、非行に走りやすいとも言われています。


うまく思春期にアイデンティティーを失わずに過ごせるかどうかは、まさに親の支援があるかないかにかかっていると思います。

Saturday, February 19, 2022

バイリンガルの育て方(その6:バイリンガルの壁(学習能力))

外国での駐在が決まったら、子供にバイリンガルになってほしいという思いが出てくるのは自然だと思います。その後、実際に駐在員として赴任し、その国で生活し始めると、その思いはますます強くなりますが、「バイリンガルの壁」に直面するご家族も少なくありません。

限られた期間のアメリカでの滞在で、お子様に如何なる英語能力をどれだけ習得させたいかが問題です。いかなる能力とは、即ち、リスニング力、スピーキング力、リーディング力、ライティング力です。これらに加えて、英語で学習する能力は別問題なんだそうです。

駐在期間中、家では日本語のみを使い、現地校では英語で勉強していても、自然にバイリンガルになるわけではなく、親として積極的に支援する必要があります。なぜなら、言語の習得には、お子様の年齢や滞在期間、性格も影響力が大きいからです。

両親が日本人で、お子様が乳児期の場合、お子様が最初に覚える言葉は日本語です。日本語の発達の基礎時期(5歳ぐらいまで)の前後に、プリスクールなどで徐々に英語に慣らしていくのが良いそうです。


何度も繰り返しますが、現地校に通っていると英語は自然と強くなるので、家では日本語で貫き通すことをお勧めします。親御さんが日本語と英語をミックスしたりちゃんぽんで話すことは避けた方が良いでしょう。


お子様が小学生でアメリカに来た場合、英語の世界の現地校に入ると、お子様のストレスは計り知れないでしょう。このような中で土曜の日本語補習校に通うことは、日本語の習得のみならず、同じ日本人と交流することにより現地校でのストレス解消の効果もあるようです。


スピーキング力と英語で学習する能力は異なるため、アメリカでの滞在期間が3年と短い場合、スピーキング力はある程度つくと思いますが、英語で学習する能力が伸びるには、更なる期間が必要とのことです。小学校4年生でアメリカに来て、5年後に帰国する場合、英語のスピーキング力はついても、英語で学習する能力は伸びない一方、日本語での学習能力が日本にいる同年齢の子供と同レベルにならない状態で帰国することになります。その場合、帰国したお子様の負担は大きくなります。


如何なるレベルのバイリンガルになるのを目標にするかをよく見極めるべきかもしれません。


Friday, February 18, 2022

バイリンガルの育て方(その5:アメリカでの学校生活がうまくいった例)

初めての海外生活となるお子様が、アメリカの現地校で英語を上達させながら学校の授業にもついていくようになるのは、確かに大変です。特に年齢が高ければ高いほど、その苦労は計り知れません。


親御さんは、お子様の年齢が低い時期は、英語の習得、つまりバイリンガルになることを夢みます。

お子様の年齢が高くなるにつれ、帰国後の中学受験、高校受験、大学受験が視野に入ると、バイリンガルどころではなくなります。放課後のクラブ活動もせず、近所の駿台やSAPIXに直行するのですから、アメリカ人の友達はできず、英語もなかなか上達しないのは必然と言えます。

一方で、英語の上達の観点から、うまくいった例もあります。スポーツ活動に積極的に参加させた例です。私の知り合いのご両親は、お子様がG7(日本でいう中学1年生)の時にアメリカに来ました。ご両親は、息子に英語だけは身につけてほしいという一心から、お子様を地元のサッカーチームに入れ、サッカーチーム中心の生活をされました。お子様は、スポーツを通じてチームメイトと仲良くなり、週末や夏休みは、地方遠征に行き、州の大会で準優勝しました。英語の上達は早く、5年間でネイティブ並みのスピーキング力を身につけました。


ご両親は、お子様の帰国後の学校のことはあまり考えず、現地校の勉強のことさえもとやかく言わないタイプのご両親でした。お子様の現地校の成績は「中の下」でしたが、ご両親は兎にも角にもお子様の英語の習得とスポーツでの活躍だけを考え、「授業の成績が悪くても、落第点を取らなければ良い」というくらいのおおらかな対応をされていました。


ご家族は5年間のアメリカ生活の後に、ASEANのとある国に転勤されました。高校の最終学年となったお子様は、その国でもサッカーのクラブチームに所属し活躍した後、日本の有名大学に帰国子女枠とスポーツ推薦枠の両方で合格したと聞いています。今ではこの有名大学のサッカーチームの代表選手として活躍しています。


このように、現地での生活において自分の居場所を見つけることは大事だと思います。数学が得意であれば、現地校のマス・チームに入って活躍できるでしょうし、そのチーム内で仲良くなれば英語も上達するでしょう。大抵の現地校には、ロボティクスというクラブチームがあり、ロボットを作ってロボット大会で優勝することを目標にしています。理数系が得意なお子様であれば、ロボティクスのチームに入って充実した高校生活を送ったり、「アプリ」のプログラミングやコーディングを行うクラブで活躍する日本人高校生もいます。


このように、高校生にもなると、スポーツやクラブ活動など何かに打ち込めるものがあれば、現地校で友達もできやすく、英語も上達するのではないでしょうか。


もちろん、現地校の授業・宿題・テストへの対応や、帰国後に受験を控えているお子様の受験対策は別問題です。


親と子の悩みはつきません。

バイリンガルの育て方(その4:子供の苦労)

お子様がバイリンガルになることへの親の夢と期待は、お子様の年齢が低ければ低いほど大きいのが常です。お子様の年齢が低ければ、英語習得の初期段階ですので、比較的短期間で英語を話せるようになる可能性が高いです。親御さんは、自分のお子様がアメリカ人のクラスメートとプレイデートをしたり、授業で発言したりすることに、親御さんは一喜一憂しがちです。


お子様が帰国後に中学受験又は高校受験、大学受験をひかえている場合、親御さんは、英語の習得どころではない状態になります。帰国子女枠試験に関する確立した勉強方法がありますので、お子様はその準備に集中することになります。その場合、アメリカ人の友達がいる、いないという問題どころではなくなります。


お子様が現地のキンダーガーデンや小学1年生のころであれば、毎週末のようにクラスメートの誕生会があり、親御さんはプレゼントの購入に頭を悩ますものです。その年齢であれば、お子様の英語の吸収能力は計り知れないものがありますし、学校の授業も小学校3年くらいまではそれほど難しくなく、ある意味、「お遊び」程度ですので、お子様もすぐに慣れるでしょう。また、現地のアメリカ人生徒は、まだ若いので、「人種」や「外国人」を意識することなく付き合ってくれることも多いです。毎週末、プレイデートも成立しますし、親も毎日の送り迎えや週末の誕生会で、クラスメートの親としょっちゅう顔をあわしますので、簡単に仲良くなれます。


ところが、小学校4年生くらいになると、子供たちに自我が芽生え始め、様々なグルーピングができ始めます。ティーンエージャーになればグルーピングはますます顕著になります。その時期に、初めてアメリカに来て現地校に入ると、お子様によっては相当苦労する方もいます。苦労の度合いも人により異なりますが、心身のストレスを抱え、不登校になる場合もあります。日本人学校があれば、転校される方もいます。


知り合いのあるお子様は、小学4年生の時にアメリカに来て2年が経っても現地校になじめませんでした。クラスには日本人がおらず、アメリカ人の友達は全くできない状況でした。お子様は内向的な性格で、ランチや休み時間の時でも一人ぼっちのことが多かったようです。英語も思うように身に付かず、勉強も小学校の最終学年である5年生が終わるまで、ほとんど頭に入っていなかったようです。これがまさに「知の空白」です。このお子様は、「知の空白」だけでなく、英語のスピーキング力も向上しませんでした。結局、お子様のストレスが頂点に達し、毎朝登校前にお腹が痛いと言い出すようになりました。そのお子様は日本人学校に転校生されました。


過去に海外生活の経験がなく、初めてアメリカで中学に入学する場合は更に大変です。日本語言語がある程度発達した年齢ですので、英語の習得に少し時間がかかるという意味では、「知の空白」の期間は長くなります。他方、会話に慣れてくると、帰国しても忘れないでしょうし、言語能力が発達していますので、読み書きも慣れれば、現地校でなんとかやっていけるでしょう。帰国後に高校受験を考えている場合、放課後は、スポーツなどのクラブ活動もせず、近所の駿台やenaに直行するお子様もおられます。そのような生活スタイルですと、アメリカ人の友達はできにくいですし、ますます英語の習得は進みません。


過去に海外生活の経験がない高校生になるお子様が親の転勤について行くと、本当に大変です。アメリカの高校の授業は、とにかくモノを書かせることが多く、授業での発表も多く、宿題の多さにも面食らいます。アメリカ人の生徒の間でもいろんなグループ(例えば、アメフトなどのスポーツグループ、ガリ勉グループ、音楽家グループ、チアリーダーグループ、パンクロックグループ、環境系グループ、LGBTQグループなど)で別れていますので、外国人たる日本人が付け入る隙がなかなかなくて困るケースが多いようです。


その上、放課後はクラブ活動もせず、塾に直行という4年間を過ごす場合、英語の習得がなかなか進まない状況となります。


帰国したら帰国したらで、どの程度英語を身につけているかにかかわらず、「帰国子女」というレッテルを貼られ、それはそれでストレスになるお子様もいます。


帰国子女のお子様の苦労は本当に計り知れないと思います。

Thursday, February 17, 2022

バイリンガルの育て方(その3:英語習得能力の発達と維持)

私は言語学者ではありませんので、外国人(特に日本人)の英語習得能力が如何に発達し、途中で中断した場合、それらの能力がどの程度維持されるかについては、正確なところはわかりません。

しかし、16年以上もアメリカに住んで、さまざまな駐在員のお子様をみてきましたので、傾向性は語れると思います。


英語の能力のうち、1)ヒアリング、2)スピーキング、 3)リーディング、4)ライティングについては、まさにこの順番で、年齢が低ければ低いほどほど習得しやすいものと感じています。


もちろん、各能力の発達/習得は、アメリカでの滞在期間(2年、5年、10年の滞在期間では自ずと英語習得能力は異なる)と帰国する時の年齢(年齢が低いほど忘れやすい)、お子様の性格などにより、大きく異なると思います。


1)ヒヤリング力

 年齢が低ければ低いほど、ヒヤリング力(音の聞き分け能力など)の発達は顕著です。前回の記事でも書きましたが、私の友人はオーストラリアで生まれ5歳まで生活していましたが、その後日本に帰り普通の日本の教育を受けて大人になりました。彼は、現在は英語を話すことはできませんが、英語のヒヤリング能力は相当高いようです。私は同じような例を他に2人知っています。


2)スピーキング力

 前回の記事で「9歳の壁」の話をしました。その上で、コミュニケーション能力がしっかりしていれば、ネイティブ並の発音でなくてもアメリカ社会で十分にやっていけることも指摘しました。

 スピーキング力で留意すべき点は、アメリカでの滞在期間にもよりますが、帰国後に伸ばすことはかなりの根気と努力が必要です。スピーキング力を維持・発達させるには、様々な人と英語で会話する環境が必要だからです。日本で生活しているとリーディング力よりも向上させることは難しいでしょう。

 帰国時の年齢が低ければ低いほど、発音は残るかもしれませんが、帰国して日本の学校・生活にどっぷり浸かると、スピーキング力はあっという間に衰えてしまいます。しかし、英語のスピーキング力を失ったと思われるお子様が、高校生になってまたアメリカに戻って来れば、すぐにスピーキング力が復活された例も知っています。

 また、言語が形成する10歳から12歳前後の時期に最低5年程度アメリカで過ごしていれば、発音はネイティブに並みになれなくとも、大人になってもスピーキング力がかなり残っている方も知っています。


3)リーディング力

 アメリカでの滞在期間と帰国時の年齢が如実に反映する能力です。帰国した時点でのリーディング力が最大値であり、帰国後に何もしなければ少しずつリーディング能力も低くなっていくようです。

 一方で、リーディング力は、日本においても維持しやすい能力だと思います。帰国直前までアメリカで読んでいた同じレベルの書物を日本においても読み続けることにより、リーディング力は維持され、少しずつ英語の書物のレベルを上げていけば、その能力は向上するでしょう。

 しかし、現実は、日本の学校に戻れば、日本での学校生活が始まると、英語の本を読むことを諦めてしまう場合が多いと聞きます。日本の学校の友達と付き合うようになり、学校のクラブ活動や塾通いをするようになれば、趣味として英語の書物を読み続けることはなかなか難しいようです。


4)ライティング力

 この能力も、幼少期に例え10年以上アメリカに滞在したとしても、帰国時の能力が最大値であることが明白です。

 帰国される方は、お子様のライティング力についてはあまり気にされる必要はないと思います。なぜなら、日本人の日本語を書く力を例に見ても、大学生でさえ書く力は、50代の私から見れば、社会で通用するレベルではない人が多いからです。私自身も、社会人として30年を経た今となって、ようやく書く力が鍛えられたと感じています。

 英語のライティング力も同様です。ネイティブの私の長女を例にとれば、彼女のライティング力は、高校時代にかなり成長したと思います。しかし、アメリカの大学受験の際に提出するエッセー案を知り合いのアメリカ人の大学教授にみてもらったところ、さまざまな点を指摘され修正しました。

 大学生となった長女の最近の論文を読みましたが、高校時代の論文と比べ、構成、論理力、語彙力、表現力、想像力、発想力はかなり上達しています。

 このように、ライティング力は、語彙力も含めて、永遠に上達させていくものだと思っています。したがって、いくら10年間アメリカに住んでいても小学生の時に帰国すれば、小学生レベルのライティング力しかないということです。

 そういう意味で、親御さんは、帰国後にお子様の英語のライティング力の維持についてあまり気にされない方が良いと思います。日本の環境下では、ライティング力の維持・向上が最も難しい能力です。私の長女が、現地校の中学、高校で、あれだけ毎日エッセーや研究・調査のペーパーを書いている姿を思い出すと、帰国後の学校生活の中で同じことをするには、インターナショナルスクールにでも通わない限り、ほぼ不可能だからです。


以上、言語学の専門ではありませんが、経験から得た考察を書きました。アメリカに何年住んでも、いつ帰国しようとも、私も含め言語の習得には終わりはないということでしょう。これは、母国語たる日本語についても言えることです。


幼少期のお子様を持つ親ほど、いかに自分の子供をバイリンガルに育てるかについて、夢と希望を持って語る方が多いですが、言語習得には終わりはないので、その夢と希望を保ちながら帰国後もお子様の英語能力をうまく伸ばされることを祈っています。