Friday, January 14, 2022

妻、メリーランド州の運転免許証取得(その2:3時間のアルコール・薬物講習受講証の取得)

メリーランド州の運転免許証を取得するためには、日本の普通自動車運転免許を持っている場合、必要な書類を出せば、技能試験および学科試験が免除されます。

必要な書類については、前回記載しましたが、その中で、「3時間のアルコール・薬物講習受講証」があります。これは、「The 3 Hour Alcohol and Drug Education Certificat 」というものです。

3時間の講習は、メリーランド州が認定した場所で受けられます。講習会場は、以下のメリーランド州のサイトでリストアップされていますので、自分で電話をして予約します。

https://mva.maryland.gov/about-mva/Pages/info/26200-678/26200-09T.aspx 

上記URLをクリックし、「View the list」をクリック。会場のリストがたくさん出てきますが、カウンティ別でソートし、モントゴメリー・カウンティを選択すると、同カウンティにある会場が出てきます。


1月9日、妻は、ハイヤッツビルにある「#1-A Introspect」(6475 New Hampshire Ave Suite #402, Hyattsville, MD 20783)で受講し、試験を受けました。


3時間講習をオンラインで受けられる会場があるそうですが、私たちはそのことを知らなかったので、妻は上記会場で3時間講習を受け、そのまま同じ会場で試験を受けました。

なお、試験は対面でしか受けられないと聞いています。しかし、過去の他の人のブログを読むと、コロナ禍でズームで試験を受けた人がいるようですが、今でもズームでの試験が行われているかはわかりません。

妻は前日まで試験対策を全くしていませんでした。そのため、前日の夜にメリーランド州が提供する模擬試験を5回くらい試しながら勉強しました。

模擬試験は以下にあります。

https://www.epermittest.com/maryland/md-drug-alcohol-practice-test

本番の試験は、模擬試験と同じ問題が出たようで、妻は満点をとりました。

妻が取得した「3時間のアルコール・薬物講習受講証」を以下に貼り付けます。



妻、メリーランド州の運転免許証取得(その1:技能試験・学科試験免除!)

妻は、2021年11月23日にホノルルに永住者として入国。

2021年12月にメリーランド州ベセスダの自宅に1年2ヶ月ぶりに

戻ってきました。


永住権を取得した妻がメリーランド州でまず行うべきことは、メリーランド州の運転免許証を取得することです。アメリカでは運転免許証がないと生活ができないと言っても過言ではないでしょう。運転免許証は、単なる運転するためのライセンスというだけではなく、本人確認のための身分証明の役割もあります。


レストランやバーでお酒を飲む時や酒屋でお酒を買う時に、店側から、21歳以上であることを確認するために身分証の提示を求められます。その際に運転免許証を提示するわけです。日本では、たとえばコンビニでお酒を購入する際、年齢確認のタッチボタンを押せば大体OKですよね。ただし、日本のコンビニでも若く見える方は、身分証を求めらることもあるようです。


アメリカの国内線の飛行機に乗る時に空港で身分証の提示を求められます。この時も運転免許証を提示するわけです。日本では、国内線の場合は身分証の提示は求められませんね。これはある意味怖いことです。


さて、どのようにしてアメリカで運転免許証を取得するのでしょうか。アメリカでは各州が運転免許証を発行していることはご承知の通りです。


メリーランド州は、日本政府との間の合意により、2016年1月から、メリーランド州に住んでいる日本人は、日本の普通自動車運転免許を持っている場合、メリーランド州の普通自動車運転免許取得する上で、技能試験および学科試験が免除されるようになりました。縦列駐車が苦手な妻にとり、技能試験が免除というのは本当にありがたいことです。聞いたところによると、日本政府とのこのような合意は、全米50州でメリーランド州が最初なんだそうです。


メリーランド州の免許取得に必要な書類は、次の通りです。

①身分証明書類 

・日本のパスポート、米国ビザ、I-94、グリーンカード等

→ 妻は、永住者なのでI-94は不要です。しかし、まだグリーンカードの実物は届いていないので、日本のパスポートとアメリカ政府が発行した「移民ビザ」で対応するしかありません。

(I-94フォームは、アメリカに入国する外国人の出入国記録情報です。外国人がアメリカに到着すると、まず空港で税関・国境警備局(CBP)の入国審査官に出迎えられ、入国が許可されれば、パスポートにスタンプが押されます。かつては入国時にI-94フォームという書類が発行されていましたが、2013年4月からデジタル化され、そのI-94フォームのシンボル的な役割を果たすのが、入国審査官の押印するスタンプです。現在では、I-94の出入国記録は、オンラインでいつでも確認・取得できるようになりました。I-94の提出を求められるのは主に、アメリカの免許証取得書類として提出する時、移民局(USCIS)に書類を提出する時、ソーシャルセキュリティー番号を取得する時などです。)


②社会保障番号(ソーシャルセキュリティカード)

→ 妻は、2002年にロサンゼルスに住んでいた時にソーシャルセキュリティカードは入手済です。最近知ったことですが、駐在員の配偶者は、今ではソーシャルセキュリティカードを取得することは難しいとのこと。


③メリーランド州居住証明書類

・電気・ガス・水道・電話料の請求書、住居の賃貸借契約書等

→ これは実は鬼門です。夫の駐在でアメリカに住んでいる場合、夫婦の名前で、住居の賃貸借契約や、電気・ガス・水道・電話の契約を結ばないことがほとんどだからです。妻の場合、たまたま共同名義にしていた当地の銀行のステートメントで夫婦の名前と住所が記載されているページと、妻が2002年から持っているAMEXの請求書で妻の名前と住所が書かれたページのコピーを提出しました。


④視力検査結果(検査より12か月以内のもの)

→ 妻は近所の眼鏡屋で検査をしました。


⑤3時間のアルコール・薬物講習受講証

→ 次回説明します。


⑥運転能力証明書類 

・日本の運転免許証+翻訳文書(日本大使館で翻訳した文書又は日本で発行された国際運転免許証など)

→ 妻は国際免許証を持っていましたが、念のため日本大使館に翻訳をお願いしました。19ドルかかりました。

Monday, January 10, 2022

アメリカの投票権改正の動き

1月6日の議会襲撃事件1周年記念行事において、バイデン大統領は、「大統領選挙以降、州レベルで次から次へ、投票を守るのではなく妨害するような法律が書かれている」と指摘しました。


これはどういうことなのでしょうか。これは、主に共和党が州知事や州議会を押さえている州で、ドライブスルー投票や24時間対応可能な投票所の禁止、郵便投票時の身分証明書提示の義務付け、投票時間の短縮等により、投票方法を従来と比べて制限する法律が成立している動きを指しているようです。


2021年1月から10月までに少なくとも19の州が投票の障壁づくりにつながる法律を成立しているとのこと。


以下、昨年からの投票権改正の主な動きを記します。


2020年

(法案の動き)

①For the People Act(H.R. 1 and S. 2093) 

この法案は、全国規模の選挙制度の導入を可能にする自動的な有権者登録や郵便投票の保障などで投票を容易にし、大口献金者の影響力を制限する包括的な選挙改革法案。

(1)米下院

・1月4日、ジョン・サーベインズ議員(民主、メリーランド州)が提出。

・3月3日、を220対210の僅差で採択。
(2)米上院

6月22日、この法案をめぐる投票が行われたが、野党・共和党から支持が得られず、法案を進めるのに必要な60票には達しなかった。


John Lewis Voting Rights Advancement Act (H.R. 4 and S. 4)

 この法案は1965年に制定された人種差別を禁じる「投票権法」の主要な保護規定の効力を復活させる内容。州が選挙関連の規則を改定する際、事前に司法省の承認を得ることなどを規定。

(1)米下院

・8月17日、テリー・シーウェル議員が提出。

・8月24日、219対212の僅差で可決。

(2)米上院

・10月5日、パトリック・リーヒ上院議員(民主、バーモント州)が提出。

・11月3日、可決に失敗。同種の法案が阻止されたのは、1月のバイデン政権発足後4回目。法案自体の採決に先立つ討議打ち切り動議に、野党共和党議員の大半が反対し、審議入りに必要な60票の賛成を確保できなかった。


Freedom to Vote Act (S. 2747)
 この修正法案には、全ての州で期日前投票期間を15日以上とすることや、2024年までに投票所での即日有権者登録を実現すること、新型コロナウイルス流行下の2020年に導入された郵便投票の制度化などが盛り込まれる。さらに、有権者の身分証規則を設けている州では、バンクカード(銀行発行のクレジットカード)や学生証なども身分証として認めるよう義務付ける。また、有権者が署名による身分証明のみで暫定投票を行うことも認める。暫定投票の集計は当局がその合法性を認めた後に行われる。
 修正法案は、上院議事運営委員会のエーミー・クロブシャー委員長(民主、ミネソタ州)とジョー・マンチン上院議員(民主、ウェストバージニア州)が主導した数カ月に及ぶ非公開協議でまとめられたもの。
(1)米上院
・9月14日、エーミー・クロブシャー議事運営委員長(民主、ミネソタ州)により、選挙改革法案の修正案「Freedom to Vote Act(S. 2747)」が提出される。
・10月20日、この法案をめぐる投票が行われたが、野党・共和党から支持が得られず、法案を進めるのに必要な60票には達しなかった。
 

(各州の投票制限の動き)

◯ジョージア州

・3月25日、米ジョージア州議会が投票制限の州法を可決。「2021年公正選挙州法」は、期日前投票や郵便投票の実施方法を従来よりも制限したり、投票所に行列する有権者に水や食べ物を提供してはならないと規制。ウィリアム・ケンプ州知事(共和党)が署名し、成立させた。

・3月26日、バイデン米大統領は、ジョージア州議会が採択した投票制限の州法を、人種差別的でアメリカらしくない、憲法への攻撃だと非難。

・6月25日、米司法省、ジョージア州で成立した投票法改正が黒人など人種的少数派を差別しているとして、同州を提訴したと発表。不正防止を名目に各州で広がる投票規制の動きに対し、バイデン政権が法的措置を講じるのは初めて。


◯アリゾナ州

・7月1日、米連邦最高裁は、アリゾナ州で指定投票所以外での投票や第三者による票の回収を規制する州法について、選挙に関する人種差別を禁止した投票権法には違反せず、合法と判断。


(テキサス州)

・9月7日、グレッグ・アボット・テキサス州知事(共和党)は、有権者に認める投票方法を大幅に制限する投票権法案に署名。12月から施行される同州法は、1)ドライブスルー投票や24時間利用可能な投票所の廃止、2)郵便投票にID(身分証)の提示義務を追加、3)選挙管理が有権者に未承諾の不在者投票用紙を送ることを禁止、4)日曜日13時以前の投票を禁止、5)党員による投票監視を簡単に排除できないようにし、投票所内での「自由な移動」を認める、6)月1回の市民権調査を実施、等が含まれる。

・11月4日、アメリカ司法省は、投票の権利を制限するテキサス州の州法が連邦法違反だとして、同州を提訴。


(大統領の演説)

・7月13日、バイデン大統領は、ペンシルベニア州フィラデルフィアで演説し、投票制度を全米レベルで見直す選挙改革法案の議会通過(連邦法の制定)が「国家的急務」だと訴えた。


2022年

・1月3日、上院で法案審議日程を管理するチャック・シューマー民主党院内総務は上院議員に対し、今後数週間以内に、投票権に関する法案審議を進める意向を伝える。下院では2021年中に、各州が投票方法に関する変更を行う場合、司法省からの事前承認を求める「John Lewis Voting Rights Advancement Act」など関連法案が可決されているが、実質的に60票の賛成がなければ法案を可決できない上院では、共和党議員の反対により審議入りを阻止されている。

 定数100の上院では、野党の議事妨害を打ち切るのに60人の賛成が必要。シューマー院内総務は、共和党が協力しない場合は、1月17日までに野党の抵抗を封じる上院規則改正に踏み切る考えを示した。規則改正はこれを単純過半数に引き下げる内容で、その過激さから「核のオプション」とも呼ばれる。少数意見を重んじる上院では「禁じ手」とされる。

・米議会上院のシネマ議員(民主)は、1月3日の声明で、投票権とともに、議事妨害を認め、60票の賛成を必要とする規則も支持していると表明。その上で、上院規則を議論することには前向きだとした。

・1月4日、政権の目玉政策であるビルド・バック・ベター法案にも反対を表明している民主党内保守派のジョー・マンチン上院議員は、上院規則改正にも難色を示した。


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本年11月には米議会では中間選挙が行われます。これまでの世論調査では、下院では民主党は過半数を取れず下野すると言われています。すでに19の州で投票の障壁が高くなっており、ますます民主党は不利になっているだけに、投票権改正は、バイデン政権及び米議会与党民主党にとっては極めて重要な課題と言えます。


Sunday, January 9, 2022

アメリカの雇用状況(昨年12月)

1月7日、米労働省が昨年12月の雇用統計を発表しました。

昨年12月の非農業部門雇用者数は前月比19万9千人増と、市場予想の44万人増を大きく下回りました。失業率は22カ月ぶりの低水準となる3.9%と、前月(昨年11月)の4.2%から改善し、労働市場がタイトな状態になっていることが示されました。市場予想は4.1%でした。

昨年11月の雇用者数の増加幅は当初発表の21万人から24万9千人へ上方改定。2021年通年での増加幅は640万人と、1939年の統計開始以降で最大となり、好調な回復基調を示唆しています。

しかし、雇用者数は依然として2020年2月のピークを360万人下回っています。

人手不足が原因で、米労働市場は年末にかけ若干失速した可能性がありますが、まだ持ちこたえている感じです。1月の統計は低迷する可能性があり、その後数カ月は、現在の新型コロナ感染の波に左右されるでしょう。

12月の雇用者数が伸び悩んだのは、雇用側の需要不足だけでなく、労働者不足も一因だったかもしれません。雇用統計の悪化は、経済が予想以上に好調であることを示すという奇妙な状況に陥っていて、賃金と物価が上昇し続け、FRBが利上げに踏み切ることを示唆しています。12月の失業率が米連邦準備理事会(FRB)の長期予測である4%を下回ったことで、一部のエコノミストの間では3月にも利上げが始まるという観測が高まっています。雇用者数の伸びは期待外れだったが、労働市場のタイトな状況をうかがわせ、早ければ3月の米利上げを後押しする可能性があるということです。もちろん、オミクロン変異株により2月の雇用統計が悪化すれば、利上げは5月に先送りされる可能性はあります。

インフレが加速する中での失業率低下や賃金の伸び加速は、より速いペースでの金融政策引き締めを正当化する可能性があります。金融政策引き締めが行われると金利が上がります。なぜなら、金融政策の引き締めは、公開市場操作や預金準備率を操作するなどの方法で、短期金融市場に流れるお金を減らすため、それによって金利を上昇されるからです。金利が上昇すれば企業の借り入れも減り、景気の過熱を抑えることにつながります。

昨年12月の統計は業種別で、レジャー・接客が5万3千人増、専門職・企業サービスが4万3千人増、製造業が2万6千人増、建設業が2万2千人増でした。輸送・倉庫業なども増加しました。
しかし、小売は減少しました。政府部門も1万2千人減少しています。
家計調査に基づくと、12月は16万8千人が労働市場に参入。労働参加率は前月から横ばいの61.9%で、コロナ禍前の63%を引き続き下回っています。人口に占める雇用者の比率は59.5%と、昨年11月の59.3%から上昇。

労働市場の逼迫を反映し、時間当たり平均賃金は前月比0.6%上昇と、昨年11月の0.4%上昇から伸びが加速。しかし、前年同月比では4.7%上昇と、5.1%上昇から鈍化しています。平均週間労働時間は横ばいの34.7時間でした。

アメリカ労働省が1月4日に発表した昨年11月の雇用動態調査(JOLTS)は自発的な離職件数が過去最大、求人件数の高止まりを示し、深刻な人手不足の状況を浮き彫りにしています。

バイデン大統領、3月に初めての一般討論演説へ

1月7日、ホワイトハウスは、バイデン大統領が3月1日にアメリカ連邦議会上下両院合同会議で一般教書演説を行うと発表しました。ペロシ下院議はバイデン大統領に対し、3月1日に一般教書演説を行うように申し入れをしていました。

実はバイデン大統領は、昨年(2020年)に大統領に就任しましたが、一般教書演説はしませんでした。したがって、今回、バイデン大統領にとり初の一般教書演説となります。

一般教書演説が3月に行われるのは米史上初。歴代大統領は通常、1月もしくは2月に演説しています。

Thursday, January 6, 2022

アメリカ連邦議会襲撃1周年

 米連邦議会議事堂が襲撃された事件から今日(1月6日)で1年を迎えました。バイデン米大統領はこの日、米国の民主主義に継続的な脅威をもたらしたとして、トランプ前大統領を非難しました。バイデン大統領は議事堂内での演説で、「1年前のこの日、この神聖な場所で民主主義が攻撃された」とし、「人々の意志は攻撃を受け、米国の憲法は深刻な脅威にさらされた」と述べ、「前大統領が2020年の選挙に関するうそを作り上げ、広めたというのが真実だ」とし、「トランプ氏は敗北を受け入れられない」と前大統領を厳しく批判しました。


バイデン大統領はさらに「米史上初めて、大統領は選挙で負けただけなく、平和的な政権移行を阻止しようとした」と強調。トランプ氏が議会占拠に対し「数時間にわたり何の行動も取らなかった」とし、「前大統領と彼の支持者は国民の投票や選挙を抑圧することが唯一の勝利への道と判断した」と批判しました。


バイデン大統領は演説でトランプ前大統領を終始「前大統領」と呼び、名前には言及しませんでした。


トランプ前大統領はバイデン大統領の演説を受けて声明を発表し、「私の名前を使い、米国をさらに分断させようとしている」と反発。共和党議員は、民主党が事件の1周年のイベントを利用していると批判。上院共和党上院のマコネル院内総務は声明で「上院民主党議員の一角が米国の規範や規則、制度の混乱を正当化するために、暴徒による試みを呼び起こしているのは驚きだ」と述べました。


しかし、事件の深刻さや責任を負うべき人物、乱入者の処罰を巡っては、米国民の意見は割れているようです。


キニピアック大学の世論調査によると、民主党支持者の93%、無所属派の56%が議会占拠事件は政府への攻撃だとの考えを示しました。一方、共和党支持者ではこの割合は29%にとどまっています。米調査機関ピュー・リサーチ・センターが行った調査では、乱入者を訴追することが重要だとみる共和党支持者が減っています。その割合は9月時点で57%となっており、3月の79%から低下。民主党支持者の間では95%で一定しています。


事件は民主主義への攻撃だとみる有権者もいれば、制御不能な状況に陥ったデモ活動だとする意見もあります。民主党や報道機関が事件を誇大に強調しているとの声も聞かれています。


米国が直面する分断の深さは本当に深刻のようです。

Wednesday, January 5, 2022

コロナ:オミクロン株

アメリカではオミクロン株が猛威をふるっています。

年末、1日の感染者数が3日連続50万人もありました。
今年に入り、1月3日の感染者数はとうとう1日で100万人を超えました。陽性者の中でオミクロン株に感染した割合は、既に95%に達しているそうです。


私の周りでも、この1ヶ月で10人に1人くらいの割合で感染している感じです。ワクチンを2回接種した人でも、ブースターを射った人でさえ、陽性者は出ています。幸い、私の知り合いの陽性者は、症状が軽いか全く症状が出ていません。


なお、オミクロン株に感染した場合の特徴は、「喉痛」のようです。


1月2日に次女はボーディングスクールに戻りましたが、寮に入るためにコロナ検査を受けました。翌1月3日からは、通いの学生も含め学生全員、教師及び学校関係者全員が毎日コロナ検査を受けています。親は、学校から毎日コロナ関連の報告をメールで受けています。今日までに高校生1335人中16名が陽性反応があったとのこと。陽性率は1.2%となります。幸い次女は感染していません。


アメリカでは、オミクロン株は簡単に感染するが症状は比較的軽く、重症者は少ないと言われています。しかしオミクロン株感染者の死者は出ていますし、デルタ株とは異なり、小児の入院の増加が報道されています。また、アメリカ全体で見ると、コロナ感染の入院者数は、これまでのピークである昨年9月の入院者数を超えています。

アメリカはPCR検査は無料です。検査が無料なので、親や祖父母、友達に会ったりする前に気軽に検査を受けています。しかし、ニューヨークなど感染爆発が起こっている都市では、検査を受けるのに3日も待つようになりました。


日本ではPCR検査に3万円から5万円かかると聞いて驚いています。こんなに検査料が高いと喉が痛くなりオミクロン株に感染した可能性があっても、症状が軽ければPCR検査を受けようと思わなくなるかもしれません。そうでなくてもオミクロン株は感染しやすいので、知らないまま感染し、知らないまま人にうつし、知らないまま治っている人がたくさんいると思います。


アメリカでは、医療従事者や公共交通機関従事者の陽性者が増加し、社会機能の維持に支障が出はじめています。いくら感染した場合の症状が軽いと言っても、感染すれば自主隔離する必要があるので、重要なインフラ関係者が不足すると社会はうまく機能しなくなります。今後も感染者・発症者が増加するにつれて、警察や消防・救急、航空会社、公共交通機関、学校、電気・水道・ガス会社の関係者が一時的に不足すると大変なことになります。


アメリカは、今月中旬にピークを過ぎるとの報道もあります。1日100万人が感染しているといずれ集団免疫ができるということでしょう。

早くピークが過ぎることを願うばかりです。

Tuesday, January 4, 2022

2022年始動!(我が家にとっての2022年)

年が明け、正月3が日も明け、いよいよ2022年が本格的に始動しました。
皆さまにとり、本年が安全で、健康で、充実した年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

1月2日に次女が早速ボーディングスクールに戻りました。長女は1月17日くらいまで自宅にいるらしいです。

さて、寅年の2022年は何が起こるのでしょうか。
今年は、我が家にとっては、非常に大事な年です。

まず、次女は、8月から高校最終学年(G12)になります。それはアメリカの大学受験を意味します。アメリカの大学には、大学毎の筆記入試試験なんてありません。
高校の成績(GPA)、共通試験(SAT/ACT)、課外活動、ボランティア、インターンなどをアプリケーションに書き込んで、エッセイなどと一緒に送付するだけです。

アプリケーションを出して合格したら必ず行かなければならない「アーリー・ディシジョン」というシステムがあります。「アーリー・ディシジョン」のアプリケーション提出期限は毎年11月1日。結果は12月中に分ります。したがって、次女はアーリー・ディシジョンでアプリケーションを提出した大学に合格すれば、本年中に大学合格となります。

妻は、本年8月から大学院に通う予定です。メリーランド州の自宅からちょっと離れた州の第二都市にある大学院です。5月か6月にはアパートを契約し、6月か7月には引っ越すことになります。

私は、2016年7月に日本を離れてからはや5年半。6年が経つ今夏に帰国する可能性が高いと思っています。

長女は、9月から大学3年生ですが、その前の夏休みには、チリに留学するか、アメリカの連邦議員のインターンを行う予定です。

ということで、今年の夏から私たち家族は、私は東京、妻は別の州、長女はマサチューセッツ州のボストン近郊の大学の3年生、次女は暖かい州の州都の高校最終学年となり今年中に大学が決まる可能性がある、ということになりそうです。

誰にとっても、毎日、毎週、毎月、毎年が重要なのですが、我が家にとり、今年はまた大きな転機となりそうな一年です。


Saturday, January 1, 2022

飽くなきアメリカ探求の旅

アメリカに15年以上住んでいますが、実は、小学生高学年の頃から休みになると時々、サンフランシスコの親戚の家を訪れ滞在していました。


母方の祖父の姉が第一次世界大戦前にアメリカに移民。ハワイ経由でサンフランシスコに定住しました。祖父の姉には子供が3人ますが、私はいつも祖父の姉の長女夫妻の家に泊まっていました。サンフランシスコ市内ですが2階建て広めの一軒家で私専用の部屋を与えてくれました。祖父の姉の長女は、私の母と「従姉妹」関係になります。私はおばさんと呼んでいました。


まだ健在だった祖父の姉から、ご自身の移民の話、日系人強制収容所での生活の話を何度も聞きました。おばさんも小さい頃、祖父の姉夫妻と一緒に日系人強制収容所に入っていました。


おばさんには長男長女がおり、私は彼らと「ふたいとこ」の関係で、特に長女(祖父の姉の孫)とは一歳違いでしたので仲が良く、彼女がよく私の面倒を見てくれました。高校生になると長女は運転ができるので行動範囲が広がり、彼女と彼女の友達とカリフォルニア州ヨセミテ国立公園でのハイキングやキャンプ、ユタ州レイクタホでのスキーなど、充実した夏休みと冬休みを過ごしました。


大学時代の夏と冬は、ロサンゼルスにいるアメリカ人の親友の家に遊びに行くようになりました。正確にはサンフェルナンド・バレー地域にあるウッドランドヒルズのプール付きの家で、夏の夜はよくプールパーティがありました。親友の友達の1人にストゥディオ・シティの豪邸に住んでいるアメリカ人の学生がおり、両親は離婚されており母親はよく不在でしたので、そのお宅にもよくお邪魔して寝泊まりしていました。この頃は、カリフォルニア州パームスプリングス、サンディエゴ、ユタ州ラスベガスを訪れ、青春を謳歌していました。


ロサンゼルスの大学院時代は、ネバダ州、ユタ州、コロラド州、ワイオミング州、モンタナ州、アイダホ州、ワシントン州、オレゴン州を回る旅行をしたことがあります。その後、カリフォルニア州に戻り、サンクラメン、サンフランシスコ、ヨセミテ国立公園、サンホゼ、モントレーベイ、サンタバーバラ、マリブを通ってロサンゼルスに戻りました。


インディアナ州の大学院に通う直前の夏休みは、オレゴン州を抜けワシントン州のシアトルからカナダのブリティッシュコロンビア準州のバンクーバーからユーコン準州を通ってアラスカ州を旅しました。

アラスカ州ではアンカレッジやフェアバンクスはもちろんのこと、デナリ国立公園を訪れました。氷河や氷山も見ました。

帰りは流石に疲れたので、アラスカのジュノーからカナダのプリンスルパートまで大型フェリーで移動しました。フェリーから鯨も見ることができました。

プリンスルパートからバンフに移動しましたが、バンフの美しい自然は今でも鮮明に覚えています。

その後カルガリーを通って、モンタナ州グレイシャー国立公園でゆっくりとしました。

そして、サウスダコダ州のマウントラシュモアの麓で一泊。翌日、ミネソタ州、ウィスコンシン州を通ってシカゴの友人の家で残りの夏休みを過ごした思い出があります。


インディアナ州に住んでいて頃は、同州ブルーミントンからミズーリ州セントルイス経由で、同州スプリングフィールドの友人の家に数泊滞在、その後、オクラホマ州を通って、テキサス州デントンの友人の家に1週間滞在したことがあります。滞在中、ダラスを訪問し、年末年始を過ごしました。その間、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺現場を訪れました。

帰りは、ルイジアナ州、ミシシッピ州、アラバマ州を通って北上し、テネシー州のナシュビルで数泊滞在。その後、ケンタッキー州を通ってインディアナ州に戻りました。


別の機会には、アイオワ州やネブラスカ州、オハイオ州の友人の家にお邪魔したこともあります。

また、スプリングブレイクでは、ケンタッキー州、テネシー州、ジョージア州を通って、フロリダ州のデイトナビーチで1週間過ごしました。


インディアナ州での大学院生活も終わった後、ワシントンDCに駐在することになり、自家用車Pontiac Grand AMで引っ越しました。ルートは、インディアナ州ブルーミントン→同州インディアナポリス→オハイオ州コロンバス→ペンシルベニア州→ワシントンDCです。この引っ越しで、私は自家用車でカリフォルニア州ロサンゼルスからインディアナ州ブルーミントンを経てワシントンDCに引っ越したので、アメリカを横断したことになります。また、同じ車でアラスカ州やフロリダ州、ノースダコダ州やテキサス州にも行っているので、アメリカを縦断したと言えるでしょう。


最初の駐在時代(バージニア州ロズリン、ワシントンDC)は、バージニア州のウィリアムズバーグやホームステッド・リゾート、ウェストバージニア州のグリーンブライア・リゾート、サウスカロライナ州のヒルトンヘッドなどを旅しました。飛行機ではカリフォルニア州ロサンゼルス、ミシガン州アン・アーバー、フロリダ州マイアミやキーウエスト、ジャマイカなどを訪問しました。


クリスマスを過ごしたミシガン州のマキノー島は思い出の島です。島の大部分が州立公園に指定され、自動車の使用は禁止されています。移動手段は徒歩、自転車、馬車しかありません。宿泊場所は、ビクトリア調の美しいリゾートホテル「グランドホテル」。ホテル内レストランのクリスマスディナーの客で有色人種は私1人であったことに驚いた記憶があります。ここのグランド・ホテルには何度も滞在しました。それがきっかけに、この島の別荘を購入し、今でも避暑地としてために使っています。別の機会には、メイン州のブランズウィックにある友達の別荘にもお邪魔したことがあります。


出張では、マサチューセッツ州のボストン、メイン州のケネバンクポート、ドイツのミュンヘン、スイスのジュネーブを訪れました。


そして、28歳になる前の夏に帰国しました。


2回目の駐在時代(カリフォルニア州ロサンゼルス)は、長女が誕生した1年後くらいにユタ州ラスベガス、アリゾナ州フェニックスとグランドキャニオン、ニューメキシコ州サンタフェとタオスなどににCRVで旅行に行きました。ロサンゼルスからラスベガスまでは、300マイル(480km)近くあるインターステート・ハイウェー15(I-15)の一本道を走るのですが、途中に、そこまで急ではないがかなり長距離の上り坂の道があります。そこを家族3人が乗ったCRVを運転していると、エンジンがオーバーヒートしかかったため、咄嗟の判断で、エアコンを消し送風のみにしました。そうするとエンジンの温度が下がっていき、難を逃れた記憶があります。サンタフェとタオスは未だに自分の大好きな場所です。先住民文化、スペイン系文化、メキシコ系文化、カウボーイ文化、芸術文化、現代アメリカ文化など、豊かな歴史と伝統を誇る独特の雰囲気を持つ場所です。温暖な気候と変化に富んだ景色に誰しもが魅了されるわけです。

その他、ロサンゼルスからサンタバーバラ、カーメル、モントレーベイ、フレズノ、サンフランシスコを訪れました。サンディエゴのシーワールドにも行きました。


出張で、ニューヨーク、テキサス州クロフォード、ジョージア州サバナとシーアイランド、メキシコのロスカボスなどを訪れました。


3回目の駐在時代(ニューヨーク州ニューヨーク)は、飛行機では、カナダ側のナイアガラの滝、ワイオミング州のイエローストーン国立公園、メキシコのカンクーン、フロリダ州のディズニーワールドやケネディ宇宙センター、ルイジアナ州のニューオリンズ、カリフォルニア州のロサンゼルスやサンフランシスコなどを訪問しました。


フロリダ州ポート・カナベラルから出発したディズニークルーズでは、同州のキーウエスト(アメリカ最南端ブイやヘミングウェーの家と博物館など)、バハマのナッソー、ウォルト・ディズニー・カンパニーが所有するプライベート島「キャスタウェイ・ケイ」などで下船し、家族4人で大きな思い出を作りました。ディズニークルーズでは、船内に至るところにミッキーマウスなど有名キャラクターがおり、2人の娘はいつでも一緒に写真を撮れるので、ミッキーマウスに対する感動を失っていくのを垣間見ました。船内では毎回異なるレストランで食事をし、船内劇場で夢いっぱいのショーを見て、長女、次女にとっては最高のクルーズだったと思います。


4回目の駐在時代(ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライ)は、長女の大学訪問でニューハンプシャー州ハノーバー、マサチューセッツ州ボストン、ウォルサム、ロードアイランド州プロビデンス、コネチカット州ニューヘイブン、ミドルタウンを訪れました。この旅行の途中でバーモント州ストウにあるサウンド・オブ・ミュージックで有名なトラップ家ロッジ(英語では、ファン・トラップ家(von Trapp family)と言います。)に行きました。またマサチューセッツ州のプリマスやケープコッド、ハイアニスにあるジョン・F・ケネディの別荘や博物館にも訪れました。

別の大学訪問では、ニュージャージー州プリンストン、バージニア州シャーロッツビル、ウィリアムズバーグを訪れたり、カリフォルニア州のスタンフォード、バークレー、ロサンゼルスなどを訪問しました。


この時期の旅行の思い出は、何といってもキャンピングカーでのグランドサークルの旅です。10代の娘2人を抱える親としてはこれが最後の家族旅行だと思い、嫌がる長女と次女をなんとか一緒に連れていきました。

ユタ州ラスベガスからスタートし、ザイオン・キャニオン、ブライス・キャニオン、アリゾナ州モニュメントバレー、奇妙な造形をした砂岩に囲まれた渓谷アンテロープ・キャニオン、そしてグランド・キャニオンと周り、最後にまたラスベガスと、個人的には夢のキャンピングカーでの旅となりました。

宿泊場所は、ラスベガスを除きキャンピングカーの中ですが、食事はいつもキャンピングカーの中とはいかず、3回に1回くらいはレストランで食事をしました。

最近になって長女から、あの旅は良かったと聞いたので、若干無理やり連れて行って良かったと思っています。もちろんこれは親のエゴですが。


別の機会の家族旅行ではジャマイカに訪れました。


その他、長女のクラブチームの地方大会遠征で、長女と2人でインディアナ州インディアナポリスに行きました。長女が活躍するバレーボールの試合を見るのは本当に楽しかったです。なお、長女は妻とボストン、ワシントンDCなども遠征で訪れています。


出張では、ニュージャージー州トレントン、ペンシルベニア州フィラデルフィア、ピッツバーグ、ウェストバージニア州チャールストン 、カリフォルニア州サンフランシスコ、キューバ、トリニダード・トバゴなどを訪れました。


5回目の駐在(メリーランド州ベセスダ)では、長女とマンハッタンを経由してボストン近郊にある大学まで一緒に行き、入寮を手伝いました。この旅は、19歳の大学2年生になる長女との車の旅であり、国際情勢からアメリカの政治などいろいろなことを話することができ、父親として本当に思い出となるありがたい旅でした。


28歳までにアメリカ50州を制覇しましたが、このようにその後もいろんな場所を訪れています。そして今後もアメリカを探索し続けます。

Friday, December 31, 2021

アメリカ駐在:自家用車の変遷

アメリカに15年以上住んでいますと、いろんな場所を訪れました。そして、さまざまな車に乗ってきました。所有した各々の車には過去の思い出がたくさん詰まっています。

これだけアメリカに住んでいますと、新車を買うという発想を捨てています。なぜなら車は新車購入から3年目から5年目が最も価格が下がるからです。多くの駐在員の方は、流石に奥様用の2台目は、「もし運転中に故障したら」と万一のことを考えて新車を購入しています。なお、会社がリース代を負担する駐在の方々は常に新車に乗っており、羨ましい限りです。

過去に私が所有した車は以下の通りです。

大学院時代(カリフォルニア州ロサンゼルス:1989年7月〜、インディアナ州ブルーミントン:1990年9月〜1991年7月)だけは、Pontiac Grand AMのマニュアル式2ドアを新車で買いました。このマニュアル式の車で制覇した州は、アラスカ州やフロリダ州、サウスダコダ州を含め40州近くです。その後、50州を制覇した時は28歳でした。

駐在1年目(バージニア州ロズリン:1991年7月〜)は1975年のPorsche 914、2年目(ワシントンDC:1992年7月〜1993年7月)から2台目となる1988年のSAAB 900 Turboも購入し、この2台を気分次第で乗り回していました。Porsche 914は天井を取り外しできる2人乗りオープンカーです。SAAB 900 Turboはその名の通りターボ機能が付いており、非常に加速がよかったです。

2回目の駐在時代(カリフォルニア州ロサンゼルス:2002年7月−2005年3月)は、1988年のBMW 325i convertible、妻用に1998年の Honda CRVを購入。BMWは14年落ちのかなり古い車ですが、4人乗りのオープンカーでした。この時から、いつかはトップ(天井)がハードで自動開閉できる4人乗りオープンカーに乗ることを夢見るようになりました。

3回目の駐在時代(ニューヨーク州マンハッタン:2007年7月史〜2011年1月)は、14年ものの1993年のToyota Camryでした。6気筒で排気量は3L、185馬力ありましたので、10歳以下の娘2人を含む家族4人でのドライブには十分の排気量と馬力です。購入時に既に14万マイル走っていたので23万キロ弱も走っている車を購入したということです。日本では考えられない走行距離だと思います。

4回目の駐在時代(ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライ:2016年6月〜2020年7月)は、2013年のToyota Sienna SEと2003年のVolkswagen Jetta を購入しました。当初は、子供の送り迎えのことを考えてSiennaは妻用、Jettaは私用と考えていましたが、どうやら妻にはSiennaは大きすぎ、普段の買い物はJettaを乗り回していました。しかし、Jettaは2003年製造の車で、13年ものの車で走行距離も12万マイル(20万キロ弱)。あまりにも妻がかわいそうに思い、2018年に8年落ちの2010年のHonda Civicのセダンに買い替えました。このCivicは相当乗り心地が良く小回りも効くので妻は愛用していました。途中から16歳で運転免許を取った長女もたまに運転していました。

Sienneは6気筒で排気量は3.5L、266馬力もあり、高校生と中学生の娘2人を含む家族4人での長距離旅行は全く問題ありませんでした。

5回目の駐在(メリーランド州ベセスダ:2020年7月〜)では、2020年7月、ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライから家族でSiennaとCivicを運転して引っ越しました。次女は2020年8月中旬から暖かい州にあるボーディングスクールに引っ越し、長女は同年9月上旬にボストン近郊の大学に引っ越したので、Siennaのような8人乗りバンは不要になりました。2020年9月、Siennaを売り2010年製造のLexus RX350を購入。Lexus RX350 は6気筒、排気量は3.5LとSiennaと変わりませんが、Siennaよりも軽く275馬力もあります。10年落ちのこの車も走行距離は12万マイルちょっとということは20万キロも走った車を買ったわけです。

10月上旬に妻が帰国したため、とうとう私の1人暮らしが始まりました。そこで、かねてからの夢であったトップがハードで自動開閉式の4人乗りオープンカーを探し求め、10月下旬、Civicを売り、2010年製造のLexus IS250Cを購入しました。2ドア6気筒で排気量は2.5Lで204馬力です。走行距離はLexus RX350と同様12万マイルちょっと(20万キロ)。私にとっては10年ものですが、まさに夢の車です。今では冬でもオープンカーにして走っています。

以上のように我が家の車は、自分用でも妻用でも10年落ちで走行距離12万マイル(20万キロ弱)の中古車購入は当たり前です。他の日本人の駐在員の方からすると、そんなに古くてマイルも走った中古車を買うなんて、ちょっと信じられないのではないかと思います。でも我が家は平気で、これまで故障等で困ったことは一度もありません。そしてアメリカでもこれまで無事故無違反です。

過去に乗った車、今乗っている車には、人生の思い出が一杯詰まっていますので、いつも大事に乗っています。

16歳の長女のTOEFL iBTのスコア

娘は2人ともアメリカ人なので、TOEFLとは縁がないと思っていました。しかし、ニューヨーク州ライに住んでいた当時16歳の長女がなぜか関心を持ったため、遊び半分で受験することになりました。遊び半分と言っても受験料を払うのは親ですが、親も気持ち半分はネイティブの長女がどのくらいの点が取れるのか興味があったので、長女が受験することを簡単に了解してしまいました。

2019年8月にNY州Purchaseで受験したことを覚えています。

2020年7月にメリーランド州モントゴメリー郡ベセスダに引っ越しましたが、最近、家の掃除をしてると、長女のTOEFL iBTのスコア用紙を発見しました。

長女のスコアは111点。内訳は次の通りです。

Reading:27点

Listening:29点

Speaking:29点

Writing:26点

満点は120点で、4種目の試験の満点はそれぞれ30点です。

ネイティブの長女は、母国語の試験で満点を取れなかったことに少しショックを受け、不機嫌になったことを記憶しています。

親としては、試験対策を一切しなかった16歳が初めてのTOEFL試験で111点を取ったのですから、まあしょうがないねと、長女を慰めました。

いかなる試験も、舐めてかからず、周到な準備をして臨むべきですね。

人生はタイミングがすべて(その3:妻はもうすぐ大学院生)

人生は、タイミングがすべて。

東京にいた頃の2015年当時、将来家族でアメリカに戻ったら、いつまでアメリカで生活ができるかわからないため、仮に次女が高校の途中で転校となると、次女の学校生活や大学受験に大きな負担になると考え、妻はその年(2015年)の秋から「移民多様化ビザ抽選プログラム」への申請を始めました。

その後、毎年申請しているうちに、当選は全く期待しなくなり、2016年7月に家族でニューヨーク州ライ市に引っ越しました。その後も、妻は、あまり期待することなく申請だけは続けていました。

そこうしているうちに、2020年となりました。その年の我が家の大きな出来事は、次の通りです。
①2月5日、長女、9月から通うアメリカの大学が決まる。(大学合格!)
②4月、次女は、とある暖かい州の州都にあるボーディングスクールに8月からハイスクール2年生(G10)として転入することが決まる。(ボーディングスクール合格!)
③5月下旬、長女はライ・ハイスクールを卒業。
④7月、家族でメリーランド州ベセスダ市に引っ越し。
⑤8月、妻が「移民多様化ビザ抽選プログラム」に6月6日に当選していたことが判明。
⑥8月中旬、次女がボーディングスクールの寮に引っ越し。
⑦9月上旬、長女が大学の寮に引っ越し。
⑧10月11日、妻が「移民多様化ビザ抽選プログラム」の今後の手続きのために帰国。
⑨10月27日、妻が「移民ビザ申請書(DS260)」をケンタッキー領事センター(KCC)に提出。

このように、2020年は、家族のメンバー全員にとって非常に大きな出来事が起こった年でした。

2020年10月11日から、メリーランド州ベセスダの自宅で1人で生活することになった自分は、ふと、妻が「移民多様化ビザ抽選プログラム」に申請し始めた昔の理由を思い返しました。それは、私の転勤如何にかかわらず、次女がアメリカで卒業まで同じ高校に通うために、妻が永住権を取ることでした。しかし、次女は、既にボーディングスクールに転入してしまったので、卒業までその心配は無くなりました。要するに、妻の永住権を取得する当初の理由が消滅していたのです。

でも、話はここで終わりません。
妻は、将来アメリカで働くために、アメリカの大学院進学を検討していました。全米の大学院を色々と調べて、中西部の大きな都市のある大学院で学ぶことに決めました。2019年秋にアプリケーションを出しましたが、2020年7月に当該大学院から、「コロナ禍のため2020年8月からは受け入れることはできない」と、少し思わせぶりな回答がありました。その後、大学院とやりとりを続けたところ、2021年4月1日に合格通知が来ました。そうなんです。妻はアメリカの大学院に合格したのです。他方、コロナ禍は継続していたため、2021年6月、大学院入学を1年間延期しました。したがって、妻は、2022年8月から大学院生となります。

来年の夏には私は転勤で帰国する可能性が高いのですが、仮にそうなっても、妻は、今や永住者としてアメリカに入国したため、アメリカに住み続けることができます。今年の8月から大学院生になる永住者の妻には、思う存分勉強し、調査・研究生活を楽しんで貰いたいと思います。

長女や次女は、今後、夏休みやクリスマス休暇では、帰国して日本で父親と過ごしても良いですし、大学院生の母親のもとに帰っても良く、選択肢ができました。

人生は、本当にタイミングです。

人生はタイミングがすべて(その2:「地獄の苦しみ」は2年間から1年間へ短縮!?)

長女と次女は2歳差です。したがって、本来であれば学年は「2学年差」のはずですが、ある時から「3学年差」となってしまいました。「3学年差」になった時は次女に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、その後、この「3学年差」が大事になってくることは、当初は夢にも思いませんでした。

2010年12月暮れに1回目のニューヨークでの生活を終え帰国する時点で、マンハッタンの公立学校で長女は小学3年生、次女は小学1年生でした。帰国後、アメリカンスクールに転入する際、「学年を決める生年月日の基準」が、マンハッタンの公立学校と違っていたため、長女はそのまま小学3年生として転入しましたが、次女は残念ながらキンダーガーデンへの転入となっていました。


次女は、ニューヨークで小学1年生を1セメスター経験していたのに、帰国したら幼稚園生に戻るなんて、少し屈辱的だったかもしれません。親としては、かわいそうで仕方がありませんでした。


ということで、2011年1月、アメリカンスクールに転入した長女と次女の「学年の差」が「2年」から「3年」に開いてしまいました。


このことは、実は将来、親にとり、とても重要になるのでした。


現在大学2年生の長女は、次女が大学に入学する時は大学4年生になります。即ち「2023年9月から2024年5月まで」の期間が「長女も次女も大学生」の期間となります。この年の授業料と寮費は2人分で1600万円を超えると思います。返済不要な奨学金が得られ、学費ローンを借りても、親の負担は2人分で1000万円を超えるものと覚悟しています。


翌2024年9月に次女は大学2年生となりますが、長女は卒業しているため、大学の授業料・寮費は一人分で済むことになります。


これは、2011年1月にアメリカンスクールに転入する時に長女と次女の「学年の差」が「3年」になったおかげです。あの時、次女がアメリカンスクールの小学1年生に転入していれば、「長女と次女が同時に大学生の期間」が「2年間」となり、2022年と2023年は、親として大学の授業料を2人分払わざるを得ない「地獄の2年間」となっていたことでしょう。


もちろん、親が負担する子供の教育費の全体額は変わりませんが、やはり、人生、タイミングはとても重要ですね。