Sunday, January 9, 2022

アメリカの雇用状況(昨年12月)

1月7日、米労働省が昨年12月の雇用統計を発表しました。

昨年12月の非農業部門雇用者数は前月比19万9千人増と、市場予想の44万人増を大きく下回りました。失業率は22カ月ぶりの低水準となる3.9%と、前月(昨年11月)の4.2%から改善し、労働市場がタイトな状態になっていることが示されました。市場予想は4.1%でした。

昨年11月の雇用者数の増加幅は当初発表の21万人から24万9千人へ上方改定。2021年通年での増加幅は640万人と、1939年の統計開始以降で最大となり、好調な回復基調を示唆しています。

しかし、雇用者数は依然として2020年2月のピークを360万人下回っています。

人手不足が原因で、米労働市場は年末にかけ若干失速した可能性がありますが、まだ持ちこたえている感じです。1月の統計は低迷する可能性があり、その後数カ月は、現在の新型コロナ感染の波に左右されるでしょう。

12月の雇用者数が伸び悩んだのは、雇用側の需要不足だけでなく、労働者不足も一因だったかもしれません。雇用統計の悪化は、経済が予想以上に好調であることを示すという奇妙な状況に陥っていて、賃金と物価が上昇し続け、FRBが利上げに踏み切ることを示唆しています。12月の失業率が米連邦準備理事会(FRB)の長期予測である4%を下回ったことで、一部のエコノミストの間では3月にも利上げが始まるという観測が高まっています。雇用者数の伸びは期待外れだったが、労働市場のタイトな状況をうかがわせ、早ければ3月の米利上げを後押しする可能性があるということです。もちろん、オミクロン変異株により2月の雇用統計が悪化すれば、利上げは5月に先送りされる可能性はあります。

インフレが加速する中での失業率低下や賃金の伸び加速は、より速いペースでの金融政策引き締めを正当化する可能性があります。金融政策引き締めが行われると金利が上がります。なぜなら、金融政策の引き締めは、公開市場操作や預金準備率を操作するなどの方法で、短期金融市場に流れるお金を減らすため、それによって金利を上昇されるからです。金利が上昇すれば企業の借り入れも減り、景気の過熱を抑えることにつながります。

昨年12月の統計は業種別で、レジャー・接客が5万3千人増、専門職・企業サービスが4万3千人増、製造業が2万6千人増、建設業が2万2千人増でした。輸送・倉庫業なども増加しました。
しかし、小売は減少しました。政府部門も1万2千人減少しています。
家計調査に基づくと、12月は16万8千人が労働市場に参入。労働参加率は前月から横ばいの61.9%で、コロナ禍前の63%を引き続き下回っています。人口に占める雇用者の比率は59.5%と、昨年11月の59.3%から上昇。

労働市場の逼迫を反映し、時間当たり平均賃金は前月比0.6%上昇と、昨年11月の0.4%上昇から伸びが加速。しかし、前年同月比では4.7%上昇と、5.1%上昇から鈍化しています。平均週間労働時間は横ばいの34.7時間でした。

アメリカ労働省が1月4日に発表した昨年11月の雇用動態調査(JOLTS)は自発的な離職件数が過去最大、求人件数の高止まりを示し、深刻な人手不足の状況を浮き彫りにしています。

バイデン大統領、3月に初めての一般討論演説へ

1月7日、ホワイトハウスは、バイデン大統領が3月1日にアメリカ連邦議会上下両院合同会議で一般教書演説を行うと発表しました。ペロシ下院議はバイデン大統領に対し、3月1日に一般教書演説を行うように申し入れをしていました。

実はバイデン大統領は、昨年(2020年)に大統領に就任しましたが、一般教書演説はしませんでした。したがって、今回、バイデン大統領にとり初の一般教書演説となります。

一般教書演説が3月に行われるのは米史上初。歴代大統領は通常、1月もしくは2月に演説しています。

Thursday, January 6, 2022

アメリカ連邦議会襲撃1周年

 米連邦議会議事堂が襲撃された事件から今日(1月6日)で1年を迎えました。バイデン米大統領はこの日、米国の民主主義に継続的な脅威をもたらしたとして、トランプ前大統領を非難しました。バイデン大統領は議事堂内での演説で、「1年前のこの日、この神聖な場所で民主主義が攻撃された」とし、「人々の意志は攻撃を受け、米国の憲法は深刻な脅威にさらされた」と述べ、「前大統領が2020年の選挙に関するうそを作り上げ、広めたというのが真実だ」とし、「トランプ氏は敗北を受け入れられない」と前大統領を厳しく批判しました。


バイデン大統領はさらに「米史上初めて、大統領は選挙で負けただけなく、平和的な政権移行を阻止しようとした」と強調。トランプ氏が議会占拠に対し「数時間にわたり何の行動も取らなかった」とし、「前大統領と彼の支持者は国民の投票や選挙を抑圧することが唯一の勝利への道と判断した」と批判しました。


バイデン大統領は演説でトランプ前大統領を終始「前大統領」と呼び、名前には言及しませんでした。


トランプ前大統領はバイデン大統領の演説を受けて声明を発表し、「私の名前を使い、米国をさらに分断させようとしている」と反発。共和党議員は、民主党が事件の1周年のイベントを利用していると批判。上院共和党上院のマコネル院内総務は声明で「上院民主党議員の一角が米国の規範や規則、制度の混乱を正当化するために、暴徒による試みを呼び起こしているのは驚きだ」と述べました。


しかし、事件の深刻さや責任を負うべき人物、乱入者の処罰を巡っては、米国民の意見は割れているようです。


キニピアック大学の世論調査によると、民主党支持者の93%、無所属派の56%が議会占拠事件は政府への攻撃だとの考えを示しました。一方、共和党支持者ではこの割合は29%にとどまっています。米調査機関ピュー・リサーチ・センターが行った調査では、乱入者を訴追することが重要だとみる共和党支持者が減っています。その割合は9月時点で57%となっており、3月の79%から低下。民主党支持者の間では95%で一定しています。


事件は民主主義への攻撃だとみる有権者もいれば、制御不能な状況に陥ったデモ活動だとする意見もあります。民主党や報道機関が事件を誇大に強調しているとの声も聞かれています。


米国が直面する分断の深さは本当に深刻のようです。

Wednesday, January 5, 2022

コロナ:オミクロン株

アメリカではオミクロン株が猛威をふるっています。

年末、1日の感染者数が3日連続50万人もありました。
今年に入り、1月3日の感染者数はとうとう1日で100万人を超えました。陽性者の中でオミクロン株に感染した割合は、既に95%に達しているそうです。


私の周りでも、この1ヶ月で10人に1人くらいの割合で感染している感じです。ワクチンを2回接種した人でも、ブースターを射った人でさえ、陽性者は出ています。幸い、私の知り合いの陽性者は、症状が軽いか全く症状が出ていません。


なお、オミクロン株に感染した場合の特徴は、「喉痛」のようです。


1月2日に次女はボーディングスクールに戻りましたが、寮に入るためにコロナ検査を受けました。翌1月3日からは、通いの学生も含め学生全員、教師及び学校関係者全員が毎日コロナ検査を受けています。親は、学校から毎日コロナ関連の報告をメールで受けています。今日までに高校生1335人中16名が陽性反応があったとのこと。陽性率は1.2%となります。幸い次女は感染していません。


アメリカでは、オミクロン株は簡単に感染するが症状は比較的軽く、重症者は少ないと言われています。しかしオミクロン株感染者の死者は出ていますし、デルタ株とは異なり、小児の入院の増加が報道されています。また、アメリカ全体で見ると、コロナ感染の入院者数は、これまでのピークである昨年9月の入院者数を超えています。

アメリカはPCR検査は無料です。検査が無料なので、親や祖父母、友達に会ったりする前に気軽に検査を受けています。しかし、ニューヨークなど感染爆発が起こっている都市では、検査を受けるのに3日も待つようになりました。


日本ではPCR検査に3万円から5万円かかると聞いて驚いています。こんなに検査料が高いと喉が痛くなりオミクロン株に感染した可能性があっても、症状が軽ければPCR検査を受けようと思わなくなるかもしれません。そうでなくてもオミクロン株は感染しやすいので、知らないまま感染し、知らないまま人にうつし、知らないまま治っている人がたくさんいると思います。


アメリカでは、医療従事者や公共交通機関従事者の陽性者が増加し、社会機能の維持に支障が出はじめています。いくら感染した場合の症状が軽いと言っても、感染すれば自主隔離する必要があるので、重要なインフラ関係者が不足すると社会はうまく機能しなくなります。今後も感染者・発症者が増加するにつれて、警察や消防・救急、航空会社、公共交通機関、学校、電気・水道・ガス会社の関係者が一時的に不足すると大変なことになります。


アメリカは、今月中旬にピークを過ぎるとの報道もあります。1日100万人が感染しているといずれ集団免疫ができるということでしょう。

早くピークが過ぎることを願うばかりです。

Tuesday, January 4, 2022

2022年始動!(我が家にとっての2022年)

年が明け、正月3が日も明け、いよいよ2022年が本格的に始動しました。
皆さまにとり、本年が安全で、健康で、充実した年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

1月2日に次女が早速ボーディングスクールに戻りました。長女は1月17日くらいまで自宅にいるらしいです。

さて、寅年の2022年は何が起こるのでしょうか。
今年は、我が家にとっては、非常に大事な年です。

まず、次女は、8月から高校最終学年(G12)になります。それはアメリカの大学受験を意味します。アメリカの大学には、大学毎の筆記入試試験なんてありません。
高校の成績(GPA)、共通試験(SAT/ACT)、課外活動、ボランティア、インターンなどをアプリケーションに書き込んで、エッセイなどと一緒に送付するだけです。

アプリケーションを出して合格したら必ず行かなければならない「アーリー・ディシジョン」というシステムがあります。「アーリー・ディシジョン」のアプリケーション提出期限は毎年11月1日。結果は12月中に分ります。したがって、次女はアーリー・ディシジョンでアプリケーションを提出した大学に合格すれば、本年中に大学合格となります。

妻は、本年8月から大学院に通う予定です。メリーランド州の自宅からちょっと離れた州の第二都市にある大学院です。5月か6月にはアパートを契約し、6月か7月には引っ越すことになります。

私は、2016年7月に日本を離れてからはや5年半。6年が経つ今夏に帰国する可能性が高いと思っています。

長女は、9月から大学3年生ですが、その前の夏休みには、チリに留学するか、アメリカの連邦議員のインターンを行う予定です。

ということで、今年の夏から私たち家族は、私は東京、妻は別の州、長女はマサチューセッツ州のボストン近郊の大学の3年生、次女は暖かい州の州都の高校最終学年となり今年中に大学が決まる可能性がある、ということになりそうです。

誰にとっても、毎日、毎週、毎月、毎年が重要なのですが、我が家にとり、今年はまた大きな転機となりそうな一年です。


Saturday, January 1, 2022

飽くなきアメリカ探求の旅

アメリカに15年以上住んでいますが、実は、小学生高学年の頃から休みになると時々、サンフランシスコの親戚の家を訪れ滞在していました。


母方の祖父の姉が第一次世界大戦前にアメリカに移民。ハワイ経由でサンフランシスコに定住しました。祖父の姉には子供が3人ますが、私はいつも祖父の姉の長女夫妻の家に泊まっていました。サンフランシスコ市内ですが2階建て広めの一軒家で私専用の部屋を与えてくれました。祖父の姉の長女は、私の母と「従姉妹」関係になります。私はおばさんと呼んでいました。


まだ健在だった祖父の姉から、ご自身の移民の話、日系人強制収容所での生活の話を何度も聞きました。おばさんも小さい頃、祖父の姉夫妻と一緒に日系人強制収容所に入っていました。


おばさんには長男長女がおり、私は彼らと「ふたいとこ」の関係で、特に長女(祖父の姉の孫)とは一歳違いでしたので仲が良く、彼女がよく私の面倒を見てくれました。高校生になると長女は運転ができるので行動範囲が広がり、彼女と彼女の友達とカリフォルニア州ヨセミテ国立公園でのハイキングやキャンプ、ユタ州レイクタホでのスキーなど、充実した夏休みと冬休みを過ごしました。


大学時代の夏と冬は、ロサンゼルスにいるアメリカ人の親友の家に遊びに行くようになりました。正確にはサンフェルナンド・バレー地域にあるウッドランドヒルズのプール付きの家で、夏の夜はよくプールパーティがありました。親友の友達の1人にストゥディオ・シティの豪邸に住んでいるアメリカ人の学生がおり、両親は離婚されており母親はよく不在でしたので、そのお宅にもよくお邪魔して寝泊まりしていました。この頃は、カリフォルニア州パームスプリングス、サンディエゴ、ユタ州ラスベガスを訪れ、青春を謳歌していました。


ロサンゼルスの大学院時代は、ネバダ州、ユタ州、コロラド州、ワイオミング州、モンタナ州、アイダホ州、ワシントン州、オレゴン州を回る旅行をしたことがあります。その後、カリフォルニア州に戻り、サンクラメン、サンフランシスコ、ヨセミテ国立公園、サンホゼ、モントレーベイ、サンタバーバラ、マリブを通ってロサンゼルスに戻りました。


インディアナ州の大学院に通う直前の夏休みは、オレゴン州を抜けワシントン州のシアトルからカナダのブリティッシュコロンビア準州のバンクーバーからユーコン準州を通ってアラスカ州を旅しました。

アラスカ州ではアンカレッジやフェアバンクスはもちろんのこと、デナリ国立公園を訪れました。氷河や氷山も見ました。

帰りは流石に疲れたので、アラスカのジュノーからカナダのプリンスルパートまで大型フェリーで移動しました。フェリーから鯨も見ることができました。

プリンスルパートからバンフに移動しましたが、バンフの美しい自然は今でも鮮明に覚えています。

その後カルガリーを通って、モンタナ州グレイシャー国立公園でゆっくりとしました。

そして、サウスダコダ州のマウントラシュモアの麓で一泊。翌日、ミネソタ州、ウィスコンシン州を通ってシカゴの友人の家で残りの夏休みを過ごした思い出があります。


インディアナ州に住んでいて頃は、同州ブルーミントンからミズーリ州セントルイス経由で、同州スプリングフィールドの友人の家に数泊滞在、その後、オクラホマ州を通って、テキサス州デントンの友人の家に1週間滞在したことがあります。滞在中、ダラスを訪問し、年末年始を過ごしました。その間、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺現場を訪れました。

帰りは、ルイジアナ州、ミシシッピ州、アラバマ州を通って北上し、テネシー州のナシュビルで数泊滞在。その後、ケンタッキー州を通ってインディアナ州に戻りました。


別の機会には、アイオワ州やネブラスカ州、オハイオ州の友人の家にお邪魔したこともあります。

また、スプリングブレイクでは、ケンタッキー州、テネシー州、ジョージア州を通って、フロリダ州のデイトナビーチで1週間過ごしました。


インディアナ州での大学院生活も終わった後、ワシントンDCに駐在することになり、自家用車Pontiac Grand AMで引っ越しました。ルートは、インディアナ州ブルーミントン→同州インディアナポリス→オハイオ州コロンバス→ペンシルベニア州→ワシントンDCです。この引っ越しで、私は自家用車でカリフォルニア州ロサンゼルスからインディアナ州ブルーミントンを経てワシントンDCに引っ越したので、アメリカを横断したことになります。また、同じ車でアラスカ州やフロリダ州、ノースダコダ州やテキサス州にも行っているので、アメリカを縦断したと言えるでしょう。


最初の駐在時代(バージニア州ロズリン、ワシントンDC)は、バージニア州のウィリアムズバーグやホームステッド・リゾート、ウェストバージニア州のグリーンブライア・リゾート、サウスカロライナ州のヒルトンヘッドなどを旅しました。飛行機ではカリフォルニア州ロサンゼルス、ミシガン州アン・アーバー、フロリダ州マイアミやキーウエスト、ジャマイカなどを訪問しました。


クリスマスを過ごしたミシガン州のマキノー島は思い出の島です。島の大部分が州立公園に指定され、自動車の使用は禁止されています。移動手段は徒歩、自転車、馬車しかありません。宿泊場所は、ビクトリア調の美しいリゾートホテル「グランドホテル」。ホテル内レストランのクリスマスディナーの客で有色人種は私1人であったことに驚いた記憶があります。ここのグランド・ホテルには何度も滞在しました。それがきっかけに、この島の別荘を購入し、今でも避暑地としてために使っています。別の機会には、メイン州のブランズウィックにある友達の別荘にもお邪魔したことがあります。


出張では、マサチューセッツ州のボストン、メイン州のケネバンクポート、ドイツのミュンヘン、スイスのジュネーブを訪れました。


そして、28歳になる前の夏に帰国しました。


2回目の駐在時代(カリフォルニア州ロサンゼルス)は、長女が誕生した1年後くらいにユタ州ラスベガス、アリゾナ州フェニックスとグランドキャニオン、ニューメキシコ州サンタフェとタオスなどににCRVで旅行に行きました。ロサンゼルスからラスベガスまでは、300マイル(480km)近くあるインターステート・ハイウェー15(I-15)の一本道を走るのですが、途中に、そこまで急ではないがかなり長距離の上り坂の道があります。そこを家族3人が乗ったCRVを運転していると、エンジンがオーバーヒートしかかったため、咄嗟の判断で、エアコンを消し送風のみにしました。そうするとエンジンの温度が下がっていき、難を逃れた記憶があります。サンタフェとタオスは未だに自分の大好きな場所です。先住民文化、スペイン系文化、メキシコ系文化、カウボーイ文化、芸術文化、現代アメリカ文化など、豊かな歴史と伝統を誇る独特の雰囲気を持つ場所です。温暖な気候と変化に富んだ景色に誰しもが魅了されるわけです。

その他、ロサンゼルスからサンタバーバラ、カーメル、モントレーベイ、フレズノ、サンフランシスコを訪れました。サンディエゴのシーワールドにも行きました。


出張で、ニューヨーク、テキサス州クロフォード、ジョージア州サバナとシーアイランド、メキシコのロスカボスなどを訪れました。


3回目の駐在時代(ニューヨーク州ニューヨーク)は、飛行機では、カナダ側のナイアガラの滝、ワイオミング州のイエローストーン国立公園、メキシコのカンクーン、フロリダ州のディズニーワールドやケネディ宇宙センター、ルイジアナ州のニューオリンズ、カリフォルニア州のロサンゼルスやサンフランシスコなどを訪問しました。


フロリダ州ポート・カナベラルから出発したディズニークルーズでは、同州のキーウエスト(アメリカ最南端ブイやヘミングウェーの家と博物館など)、バハマのナッソー、ウォルト・ディズニー・カンパニーが所有するプライベート島「キャスタウェイ・ケイ」などで下船し、家族4人で大きな思い出を作りました。ディズニークルーズでは、船内に至るところにミッキーマウスなど有名キャラクターがおり、2人の娘はいつでも一緒に写真を撮れるので、ミッキーマウスに対する感動を失っていくのを垣間見ました。船内では毎回異なるレストランで食事をし、船内劇場で夢いっぱいのショーを見て、長女、次女にとっては最高のクルーズだったと思います。


4回目の駐在時代(ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライ)は、長女の大学訪問でニューハンプシャー州ハノーバー、マサチューセッツ州ボストン、ウォルサム、ロードアイランド州プロビデンス、コネチカット州ニューヘイブン、ミドルタウンを訪れました。この旅行の途中でバーモント州ストウにあるサウンド・オブ・ミュージックで有名なトラップ家ロッジ(英語では、ファン・トラップ家(von Trapp family)と言います。)に行きました。またマサチューセッツ州のプリマスやケープコッド、ハイアニスにあるジョン・F・ケネディの別荘や博物館にも訪れました。

別の大学訪問では、ニュージャージー州プリンストン、バージニア州シャーロッツビル、ウィリアムズバーグを訪れたり、カリフォルニア州のスタンフォード、バークレー、ロサンゼルスなどを訪問しました。


この時期の旅行の思い出は、何といってもキャンピングカーでのグランドサークルの旅です。10代の娘2人を抱える親としてはこれが最後の家族旅行だと思い、嫌がる長女と次女をなんとか一緒に連れていきました。

ユタ州ラスベガスからスタートし、ザイオン・キャニオン、ブライス・キャニオン、アリゾナ州モニュメントバレー、奇妙な造形をした砂岩に囲まれた渓谷アンテロープ・キャニオン、そしてグランド・キャニオンと周り、最後にまたラスベガスと、個人的には夢のキャンピングカーでの旅となりました。

宿泊場所は、ラスベガスを除きキャンピングカーの中ですが、食事はいつもキャンピングカーの中とはいかず、3回に1回くらいはレストランで食事をしました。

最近になって長女から、あの旅は良かったと聞いたので、若干無理やり連れて行って良かったと思っています。もちろんこれは親のエゴですが。


別の機会の家族旅行ではジャマイカに訪れました。


その他、長女のクラブチームの地方大会遠征で、長女と2人でインディアナ州インディアナポリスに行きました。長女が活躍するバレーボールの試合を見るのは本当に楽しかったです。なお、長女は妻とボストン、ワシントンDCなども遠征で訪れています。


出張では、ニュージャージー州トレントン、ペンシルベニア州フィラデルフィア、ピッツバーグ、ウェストバージニア州チャールストン 、カリフォルニア州サンフランシスコ、キューバ、トリニダード・トバゴなどを訪れました。


5回目の駐在(メリーランド州ベセスダ)では、長女とマンハッタンを経由してボストン近郊にある大学まで一緒に行き、入寮を手伝いました。この旅は、19歳の大学2年生になる長女との車の旅であり、国際情勢からアメリカの政治などいろいろなことを話することができ、父親として本当に思い出となるありがたい旅でした。


28歳までにアメリカ50州を制覇しましたが、このようにその後もいろんな場所を訪れています。そして今後もアメリカを探索し続けます。

Friday, December 31, 2021

アメリカ駐在:自家用車の変遷

アメリカに15年以上住んでいますと、いろんな場所を訪れました。そして、さまざまな車に乗ってきました。所有した各々の車には過去の思い出がたくさん詰まっています。

これだけアメリカに住んでいますと、新車を買うという発想を捨てています。なぜなら車は新車購入から3年目から5年目が最も価格が下がるからです。多くの駐在員の方は、流石に奥様用の2台目は、「もし運転中に故障したら」と万一のことを考えて新車を購入しています。なお、会社がリース代を負担する駐在の方々は常に新車に乗っており、羨ましい限りです。

過去に私が所有した車は以下の通りです。

大学院時代(カリフォルニア州ロサンゼルス:1989年7月〜、インディアナ州ブルーミントン:1990年9月〜1991年7月)だけは、Pontiac Grand AMのマニュアル式2ドアを新車で買いました。このマニュアル式の車で制覇した州は、アラスカ州やフロリダ州、サウスダコダ州を含め40州近くです。その後、50州を制覇した時は28歳でした。

駐在1年目(バージニア州ロズリン:1991年7月〜)は1975年のPorsche 914、2年目(ワシントンDC:1992年7月〜1993年7月)から2台目となる1988年のSAAB 900 Turboも購入し、この2台を気分次第で乗り回していました。Porsche 914は天井を取り外しできる2人乗りオープンカーです。SAAB 900 Turboはその名の通りターボ機能が付いており、非常に加速がよかったです。

2回目の駐在時代(カリフォルニア州ロサンゼルス:2002年7月−2005年3月)は、1988年のBMW 325i convertible、妻用に1998年の Honda CRVを購入。BMWは14年落ちのかなり古い車ですが、4人乗りのオープンカーでした。この時から、いつかはトップ(天井)がハードで自動開閉できる4人乗りオープンカーに乗ることを夢見るようになりました。

3回目の駐在時代(ニューヨーク州マンハッタン:2007年7月史〜2011年1月)は、14年ものの1993年のToyota Camryでした。6気筒で排気量は3L、185馬力ありましたので、10歳以下の娘2人を含む家族4人でのドライブには十分の排気量と馬力です。購入時に既に14万マイル走っていたので23万キロ弱も走っている車を購入したということです。日本では考えられない走行距離だと思います。

4回目の駐在時代(ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライ:2016年6月〜2020年7月)は、2013年のToyota Sienna SEと2003年のVolkswagen Jetta を購入しました。当初は、子供の送り迎えのことを考えてSiennaは妻用、Jettaは私用と考えていましたが、どうやら妻にはSiennaは大きすぎ、普段の買い物はJettaを乗り回していました。しかし、Jettaは2003年製造の車で、13年ものの車で走行距離も12万マイル(20万キロ弱)。あまりにも妻がかわいそうに思い、2018年に8年落ちの2010年のHonda Civicのセダンに買い替えました。このCivicは相当乗り心地が良く小回りも効くので妻は愛用していました。途中から16歳で運転免許を取った長女もたまに運転していました。

Sienneは6気筒で排気量は3.5L、266馬力もあり、高校生と中学生の娘2人を含む家族4人での長距離旅行は全く問題ありませんでした。

5回目の駐在(メリーランド州ベセスダ:2020年7月〜)では、2020年7月、ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライから家族でSiennaとCivicを運転して引っ越しました。次女は2020年8月中旬から暖かい州にあるボーディングスクールに引っ越し、長女は同年9月上旬にボストン近郊の大学に引っ越したので、Siennaのような8人乗りバンは不要になりました。2020年9月、Siennaを売り2010年製造のLexus RX350を購入。Lexus RX350 は6気筒、排気量は3.5LとSiennaと変わりませんが、Siennaよりも軽く275馬力もあります。10年落ちのこの車も走行距離は12万マイルちょっとということは20万キロも走った車を買ったわけです。

10月上旬に妻が帰国したため、とうとう私の1人暮らしが始まりました。そこで、かねてからの夢であったトップがハードで自動開閉式の4人乗りオープンカーを探し求め、10月下旬、Civicを売り、2010年製造のLexus IS250Cを購入しました。2ドア6気筒で排気量は2.5Lで204馬力です。走行距離はLexus RX350と同様12万マイルちょっと(20万キロ)。私にとっては10年ものですが、まさに夢の車です。今では冬でもオープンカーにして走っています。

以上のように我が家の車は、自分用でも妻用でも10年落ちで走行距離12万マイル(20万キロ弱)の中古車購入は当たり前です。他の日本人の駐在員の方からすると、そんなに古くてマイルも走った中古車を買うなんて、ちょっと信じられないのではないかと思います。でも我が家は平気で、これまで故障等で困ったことは一度もありません。そしてアメリカでもこれまで無事故無違反です。

過去に乗った車、今乗っている車には、人生の思い出が一杯詰まっていますので、いつも大事に乗っています。

16歳の長女のTOEFL iBTのスコア

娘は2人ともアメリカ人なので、TOEFLとは縁がないと思っていました。しかし、ニューヨーク州ライに住んでいた当時16歳の長女がなぜか関心を持ったため、遊び半分で受験することになりました。遊び半分と言っても受験料を払うのは親ですが、親も気持ち半分はネイティブの長女がどのくらいの点が取れるのか興味があったので、長女が受験することを簡単に了解してしまいました。

2019年8月にNY州Purchaseで受験したことを覚えています。

2020年7月にメリーランド州モントゴメリー郡ベセスダに引っ越しましたが、最近、家の掃除をしてると、長女のTOEFL iBTのスコア用紙を発見しました。

長女のスコアは111点。内訳は次の通りです。

Reading:27点

Listening:29点

Speaking:29点

Writing:26点

満点は120点で、4種目の試験の満点はそれぞれ30点です。

ネイティブの長女は、母国語の試験で満点を取れなかったことに少しショックを受け、不機嫌になったことを記憶しています。

親としては、試験対策を一切しなかった16歳が初めてのTOEFL試験で111点を取ったのですから、まあしょうがないねと、長女を慰めました。

いかなる試験も、舐めてかからず、周到な準備をして臨むべきですね。

人生はタイミングがすべて(その3:妻はもうすぐ大学院生)

人生は、タイミングがすべて。

東京にいた頃の2015年当時、将来家族でアメリカに戻ったら、いつまでアメリカで生活ができるかわからないため、仮に次女が高校の途中で転校となると、次女の学校生活や大学受験に大きな負担になると考え、妻はその年(2015年)の秋から「移民多様化ビザ抽選プログラム」への申請を始めました。

その後、毎年申請しているうちに、当選は全く期待しなくなり、2016年7月に家族でニューヨーク州ライ市に引っ越しました。その後も、妻は、あまり期待することなく申請だけは続けていました。

そこうしているうちに、2020年となりました。その年の我が家の大きな出来事は、次の通りです。
①2月5日、長女、9月から通うアメリカの大学が決まる。(大学合格!)
②4月、次女は、とある暖かい州の州都にあるボーディングスクールに8月からハイスクール2年生(G10)として転入することが決まる。(ボーディングスクール合格!)
③5月下旬、長女はライ・ハイスクールを卒業。
④7月、家族でメリーランド州ベセスダ市に引っ越し。
⑤8月、妻が「移民多様化ビザ抽選プログラム」に6月6日に当選していたことが判明。
⑥8月中旬、次女がボーディングスクールの寮に引っ越し。
⑦9月上旬、長女が大学の寮に引っ越し。
⑧10月11日、妻が「移民多様化ビザ抽選プログラム」の今後の手続きのために帰国。
⑨10月27日、妻が「移民ビザ申請書(DS260)」をケンタッキー領事センター(KCC)に提出。

このように、2020年は、家族のメンバー全員にとって非常に大きな出来事が起こった年でした。

2020年10月11日から、メリーランド州ベセスダの自宅で1人で生活することになった自分は、ふと、妻が「移民多様化ビザ抽選プログラム」に申請し始めた昔の理由を思い返しました。それは、私の転勤如何にかかわらず、次女がアメリカで卒業まで同じ高校に通うために、妻が永住権を取ることでした。しかし、次女は、既にボーディングスクールに転入してしまったので、卒業までその心配は無くなりました。要するに、妻の永住権を取得する当初の理由が消滅していたのです。

でも、話はここで終わりません。
妻は、将来アメリカで働くために、アメリカの大学院進学を検討していました。全米の大学院を色々と調べて、中西部の大きな都市のある大学院で学ぶことに決めました。2019年秋にアプリケーションを出しましたが、2020年7月に当該大学院から、「コロナ禍のため2020年8月からは受け入れることはできない」と、少し思わせぶりな回答がありました。その後、大学院とやりとりを続けたところ、2021年4月1日に合格通知が来ました。そうなんです。妻はアメリカの大学院に合格したのです。他方、コロナ禍は継続していたため、2021年6月、大学院入学を1年間延期しました。したがって、妻は、2022年8月から大学院生となります。

来年の夏には私は転勤で帰国する可能性が高いのですが、仮にそうなっても、妻は、今や永住者としてアメリカに入国したため、アメリカに住み続けることができます。今年の8月から大学院生になる永住者の妻には、思う存分勉強し、調査・研究生活を楽しんで貰いたいと思います。

長女や次女は、今後、夏休みやクリスマス休暇では、帰国して日本で父親と過ごしても良いですし、大学院生の母親のもとに帰っても良く、選択肢ができました。

人生は、本当にタイミングです。

人生はタイミングがすべて(その2:「地獄の苦しみ」は2年間から1年間へ短縮!?)

長女と次女は2歳差です。したがって、本来であれば学年は「2学年差」のはずですが、ある時から「3学年差」となってしまいました。「3学年差」になった時は次女に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、その後、この「3学年差」が大事になってくることは、当初は夢にも思いませんでした。

2010年12月暮れに1回目のニューヨークでの生活を終え帰国する時点で、マンハッタンの公立学校で長女は小学3年生、次女は小学1年生でした。帰国後、アメリカンスクールに転入する際、「学年を決める生年月日の基準」が、マンハッタンの公立学校と違っていたため、長女はそのまま小学3年生として転入しましたが、次女は残念ながらキンダーガーデンへの転入となっていました。


次女は、ニューヨークで小学1年生を1セメスター経験していたのに、帰国したら幼稚園生に戻るなんて、少し屈辱的だったかもしれません。親としては、かわいそうで仕方がありませんでした。


ということで、2011年1月、アメリカンスクールに転入した長女と次女の「学年の差」が「2年」から「3年」に開いてしまいました。


このことは、実は将来、親にとり、とても重要になるのでした。


現在大学2年生の長女は、次女が大学に入学する時は大学4年生になります。即ち「2023年9月から2024年5月まで」の期間が「長女も次女も大学生」の期間となります。この年の授業料と寮費は2人分で1600万円を超えると思います。返済不要な奨学金が得られ、学費ローンを借りても、親の負担は2人分で1000万円を超えるものと覚悟しています。


翌2024年9月に次女は大学2年生となりますが、長女は卒業しているため、大学の授業料・寮費は一人分で済むことになります。


これは、2011年1月にアメリカンスクールに転入する時に長女と次女の「学年の差」が「3年」になったおかげです。あの時、次女がアメリカンスクールの小学1年生に転入していれば、「長女と次女が同時に大学生の期間」が「2年間」となり、2022年と2023年は、親として大学の授業料を2人分払わざるを得ない「地獄の2年間」となっていたことでしょう。


もちろん、親が負担する子供の教育費の全体額は変わりませんが、やはり、人生、タイミングはとても重要ですね。

人生はタイミングがすべて(その1)

 人生を改めて振り返ると、人生は「タイミング」であり、ある意味、「タイミングがすべて」であることを実感しています。

子供の教育においてもタイミングが重要です。


長女も次女もロサンゼルスで生まれ、2人ともアメリカ市民権を得ました。2人目を授かるタイミングか、アメリカを離れる私の転勤のタイミングがずれていれば、次女はロサンゼルスで生まれておらず、アメリカ市民権を得られなかったかもしれません。


次女はキンダーガーデン(幼稚園)の入学からエレメンタリースクール卒業まで同じ学校に通えました(東京のアメリカンスクール)。


長女も次女もミドルスクールを入学から卒業まで同じ学校に通えました(長女は東京のアメリカンスクール、次女はNY州ライ・ミドルスクール)。


長女はハイスクールを入学から卒業まで同じ学校に通えました(NY州ライ・ハイスクール)。


これらは、私の転勤のタイミングでたまたまそうなったわけですが、長女と次女が、節目節目で同じ学校に入学から卒業までずっと通えたことは、学業の観点、友達作りの観点、それらが及ぼす精神的な観点から、本当に良かったようです。


もう一つよかった点は、東京のアメリカンスクールは、キンダーガーデン(幼稚園)からハイスクールまで同じ敷地にあったことです。そのため長女と次女は5年半の間、一緒に通学できました。


また、NY州ウェストチェスター郡ライ市の公立学校である、ライ・ミドルスクールもライ・ハイスクールも同じ敷地にあったので、毎朝私が娘2人を車で学校まで送っていました。所要時間はたった5分ですが。なお、次女にとり、同じ敷地に姉(長女)がいたことは、心のどこかで安心できていたようです。


人生は本当にタイミングですね。

2021年の年末:一家団欒

2021年12月中旬から 久方ぶりに家族全員が集まりました。妻は1年2ヶ月ぶり、次女は4ヶ月ぶり、長女は3ヶ月ぶりの再会です。

昨年のクリスマスは、妻は1人で日本におり、私と娘2人でホノルルで休暇を取りました。今年は12月13日に次女が、12月21日に長女が遅まきながら大学の寮からメリーランド州のベセスダの自宅に帰省。それ以降、一家団欒が続いています。

来年1月2日には次女はボーディングスークルに戻るので、それまでの期間を大事にして、できるだけ家族でいろんなことをしています。

12月24日は、次女と2人でフリーア美術館の「北斎展」を鑑賞。

12月25日の朝は、クリスマスツリーの下に置かれた各人から各人宛てのプレゼントを開ける我が家伝統の儀式を行い、次女の手作りの夕食をみんなで堪能しました。

12月26日は、妻と長女と一緒にワーナーシアターでワシントン・バレエ団の「くるみ割り人形」を鑑賞。

12月28日は、妻と次女と一緒にボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学のキャンパスツアーに参加。非常に優秀な総合大学ですが、学部生は5500人しかいないリベラルアーツ並みの規模の大学です。次女は将来大学で環境科学の研究調査を行いたいそうで、この大学は研究調査が非常に強い大学であるので、魅力的に感じました。

その日の夜は、ベジタリアンの次女のことを考えて、ベセスダにある健康食が売りの「True Food Kitchen」レストランで家族全員で夕食を取りました。

12月29日は、長女と次女は、メリーランド州ロックビルにあるロックビル・タウンスクエアの小さな屋外アイススケート場でアイススケートをしました。私は運転手役でした。長女と次女はアイススケートも楽しンダようですが、どうやら滑りながらいろんなお話を姉妹でしたみたいです。

その後、3人でメリーランド州シルバースプリングに移動し、「Regal Majestic & IMAX」劇場で「スパイダーマン:ノーウェイ・ホーム(Spider-Man: No Way Home)」を鑑賞しました。歴代のスパイダーマンが登場するのですが、非常によくできた楽しい映画でした。

12月30日午前は、妻と一緒にバンク・オブ・アメリカに行き、妻だけの銀行口座を開き、デビットカードやクレジットカードも作りました。これは、来年8月からの妻の大学院進学に備えての準備です。

その日の午後は、長女と次女はCVSでHPVワクチンを接種。私はまた運転手役。その後、Safewayで私が帯状疱疹のワクチンを接種しました。

12月31日は、家族全員でスミソニアンのアメリカ美術館(American Art Museum)(この美術館の中にある国立肖像画ギャラリー(National Portrait Gallerry)も含む)、レンウィック・ギャラリー(Renwick Gallery)などを訪れました。移動の途中で、ラファイエット広場からペンシルベニア・アベニューを挟んだところにあるホワイトハウスを外から見学。家族で記念写真を撮りました。

このように、2021年の最後を喧嘩もせずに一家団欒で過ごすことができ、とても感謝しています。


*1枚目の写真は大統領執務室があるウエスト・ウイングの建物。

*2枚目の写真は、大統領夫妻が住んでいるレジデンス等があるホワイトハウス。大統領がよく記者会見をするイーストルームもこの中にある。3階は大統領のプライベートクウォーター。







妻、アメリカの永住権取得!(その13:「1年2ヶ月」もの「首が回らない」期間)

2020年10月11日に妻が帰国したことにより、我が家は、物理的に「一家離散」状態となりました。家族の居住地は、私はメリーランド州ベセスダ市、妻は東京、長女はマサチューセッツ州ボストン近郊、次女はある暖かい州の州都と、家族全員が異なる地域にバラバラで生活することになりました。

最も大変だったことは、「懐事情」です。私の生活費に、妻の東京での生活費加わりました。そもそも長女の学費・寮費(8万ドルちょっと)への親の出費は4万4千ドル、次女の寮付き私立高の学費・寮費(6万5千)への親の出費は2万4千ドルもあるので、まさに「首が回らない」状態となりました。


妻が2020年10月11日に帰国してから2021年9月29日に「移民ビザ」を取得するまでの期間は約「1年間」ですが、妻は、「移民ビザ」を取得した後、2021年11月23日まで日本に残りました。したがって、妻は、日本に「1年1ヶ月ちょっと」生活したことになります。妻はこの期間、本当に大変だったと思います。


更に妻は、2021年11月23日に日本を発ってハワイ州ホノルルに永住者として入国して以降、2021年12月12日までホノルルに滞在しました。妻は暖かいところで、ごく短い期間ですが、少しでもリハビリができたことを祈っています。


ということで、2020年10月11日から2021年12月12日までのこの「1年2ヶ月間」は、財政的にも相当辛い期間でした。しかし、妻はこれで永住者としてアメリカで生活することになりますので、アメリカでのこれからのことを考えると、夢は膨らみます。