Tuesday, January 4, 2022
2022年始動!(我が家にとっての2022年)
Saturday, January 1, 2022
飽くなきアメリカ探求の旅
アメリカに15年以上住んでいますが、実は、小学生高学年の頃から休みになると時々、サンフランシスコの親戚の家を訪れ滞在していました。
母方の祖父の姉が第一次世界大戦前にアメリカに移民。ハワイ経由でサンフランシスコに定住しました。祖父の姉には子供が3人ますが、私はいつも祖父の姉の長女夫妻の家に泊まっていました。サンフランシスコ市内ですが2階建て広めの一軒家で私専用の部屋を与えてくれました。祖父の姉の長女は、私の母と「従姉妹」関係になります。私はおばさんと呼んでいました。
まだ健在だった祖父の姉から、ご自身の移民の話、日系人強制収容所での生活の話を何度も聞きました。おばさんも小さい頃、祖父の姉夫妻と一緒に日系人強制収容所に入っていました。
おばさんには長男長女がおり、私は彼らと「ふたいとこ」の関係で、特に長女(祖父の姉の孫)とは一歳違いでしたので仲が良く、彼女がよく私の面倒を見てくれました。高校生になると長女は運転ができるので行動範囲が広がり、彼女と彼女の友達とカリフォルニア州ヨセミテ国立公園でのハイキングやキャンプ、ユタ州レイクタホでのスキーなど、充実した夏休みと冬休みを過ごしました。
大学時代の夏と冬は、ロサンゼルスにいるアメリカ人の親友の家に遊びに行くようになりました。正確にはサンフェルナンド・バレー地域にあるウッドランドヒルズのプール付きの家で、夏の夜はよくプールパーティがありました。親友の友達の1人にストゥディオ・シティの豪邸に住んでいるアメリカ人の学生がおり、両親は離婚されており母親はよく不在でしたので、そのお宅にもよくお邪魔して寝泊まりしていました。この頃は、カリフォルニア州パームスプリングス、サンディエゴ、ユタ州ラスベガスを訪れ、青春を謳歌していました。
ロサンゼルスの大学院時代は、ネバダ州、ユタ州、コロラド州、ワイオミング州、モンタナ州、アイダホ州、ワシントン州、オレゴン州を回る旅行をしたことがあります。その後、カリフォルニア州に戻り、サンクラメン、サンフランシスコ、ヨセミテ国立公園、サンホゼ、モントレーベイ、サンタバーバラ、マリブを通ってロサンゼルスに戻りました。
インディアナ州の大学院に通う直前の夏休みは、オレゴン州を抜けワシントン州のシアトルからカナダのブリティッシュコロンビア準州のバンクーバーからユーコン準州を通ってアラスカ州を旅しました。
アラスカ州ではアンカレッジやフェアバンクスはもちろんのこと、デナリ国立公園を訪れました。氷河や氷山も見ました。
帰りは流石に疲れたので、アラスカのジュノーからカナダのプリンスルパートまで大型フェリーで移動しました。フェリーから鯨も見ることができました。
プリンスルパートからバンフに移動しましたが、バンフの美しい自然は今でも鮮明に覚えています。
その後カルガリーを通って、モンタナ州グレイシャー国立公園でゆっくりとしました。
そして、サウスダコダ州のマウントラシュモアの麓で一泊。翌日、ミネソタ州、ウィスコンシン州を通ってシカゴの友人の家で残りの夏休みを過ごした思い出があります。
インディアナ州に住んでいて頃は、同州ブルーミントンからミズーリ州セントルイス経由で、同州スプリングフィールドの友人の家に数泊滞在、その後、オクラホマ州を通って、テキサス州デントンの友人の家に1週間滞在したことがあります。滞在中、ダラスを訪問し、年末年始を過ごしました。その間、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺現場を訪れました。
帰りは、ルイジアナ州、ミシシッピ州、アラバマ州を通って北上し、テネシー州のナシュビルで数泊滞在。その後、ケンタッキー州を通ってインディアナ州に戻りました。
別の機会には、アイオワ州やネブラスカ州、オハイオ州の友人の家にお邪魔したこともあります。
また、スプリングブレイクでは、ケンタッキー州、テネシー州、ジョージア州を通って、フロリダ州のデイトナビーチで1週間過ごしました。
インディアナ州での大学院生活も終わった後、ワシントンDCに駐在することになり、自家用車Pontiac Grand AMで引っ越しました。ルートは、インディアナ州ブルーミントン→同州インディアナポリス→オハイオ州コロンバス→ペンシルベニア州→ワシントンDCです。この引っ越しで、私は自家用車でカリフォルニア州ロサンゼルスからインディアナ州ブルーミントンを経てワシントンDCに引っ越したので、アメリカを横断したことになります。また、同じ車でアラスカ州やフロリダ州、ノースダコダ州やテキサス州にも行っているので、アメリカを縦断したと言えるでしょう。
最初の駐在時代(バージニア州ロズリン、ワシントンDC)は、バージニア州のウィリアムズバーグやホームステッド・リゾート、ウェストバージニア州のグリーンブライア・リゾート、サウスカロライナ州のヒルトンヘッドなどを旅しました。飛行機ではカリフォルニア州ロサンゼルス、ミシガン州アン・アーバー、フロリダ州マイアミやキーウエスト、ジャマイカなどを訪問しました。
クリスマスを過ごしたミシガン州のマキノー島は思い出の島です。島の大部分が州立公園に指定され、自動車の使用は禁止されています。移動手段は徒歩、自転車、馬車しかありません。宿泊場所は、ビクトリア調の美しいリゾートホテル「グランドホテル」。ホテル内レストランのクリスマスディナーの客で有色人種は私1人であったことに驚いた記憶があります。ここのグランド・ホテルには何度も滞在しました。それがきっかけに、この島の別荘を購入し、今でも避暑地としてために使っています。別の機会には、メイン州のブランズウィックにある友達の別荘にもお邪魔したことがあります。
出張では、マサチューセッツ州のボストン、メイン州のケネバンクポート、ドイツのミュンヘン、スイスのジュネーブを訪れました。
そして、28歳になる前の夏に帰国しました。
2回目の駐在時代(カリフォルニア州ロサンゼルス)は、長女が誕生した1年後くらいにユタ州ラスベガス、アリゾナ州フェニックスとグランドキャニオン、ニューメキシコ州サンタフェとタオスなどににCRVで旅行に行きました。ロサンゼルスからラスベガスまでは、300マイル(480km)近くあるインターステート・ハイウェー15(I-15)の一本道を走るのですが、途中に、そこまで急ではないがかなり長距離の上り坂の道があります。そこを家族3人が乗ったCRVを運転していると、エンジンがオーバーヒートしかかったため、咄嗟の判断で、エアコンを消し送風のみにしました。そうするとエンジンの温度が下がっていき、難を逃れた記憶があります。サンタフェとタオスは未だに自分の大好きな場所です。先住民文化、スペイン系文化、メキシコ系文化、カウボーイ文化、芸術文化、現代アメリカ文化など、豊かな歴史と伝統を誇る独特の雰囲気を持つ場所です。温暖な気候と変化に富んだ景色に誰しもが魅了されるわけです。
その他、ロサンゼルスからサンタバーバラ、カーメル、モントレーベイ、フレズノ、サンフランシスコを訪れました。サンディエゴのシーワールドにも行きました。
出張で、ニューヨーク、テキサス州クロフォード、ジョージア州サバナとシーアイランド、メキシコのロスカボスなどを訪れました。
3回目の駐在時代(ニューヨーク州ニューヨーク)は、飛行機では、カナダ側のナイアガラの滝、ワイオミング州のイエローストーン国立公園、メキシコのカンクーン、フロリダ州のディズニーワールドやケネディ宇宙センター、ルイジアナ州のニューオリンズ、カリフォルニア州のロサンゼルスやサンフランシスコなどを訪問しました。
フロリダ州ポート・カナベラルから出発したディズニークルーズでは、同州のキーウエスト(アメリカ最南端ブイやヘミングウェーの家と博物館など)、バハマのナッソー、ウォルト・ディズニー・カンパニーが所有するプライベート島「キャスタウェイ・ケイ」などで下船し、家族4人で大きな思い出を作りました。ディズニークルーズでは、船内に至るところにミッキーマウスなど有名キャラクターがおり、2人の娘はいつでも一緒に写真を撮れるので、ミッキーマウスに対する感動を失っていくのを垣間見ました。船内では毎回異なるレストランで食事をし、船内劇場で夢いっぱいのショーを見て、長女、次女にとっては最高のクルーズだったと思います。
4回目の駐在時代(ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライ)は、長女の大学訪問でニューハンプシャー州ハノーバー、マサチューセッツ州ボストン、ウォルサム、ロードアイランド州プロビデンス、コネチカット州ニューヘイブン、ミドルタウンを訪れました。この旅行の途中でバーモント州ストウにあるサウンド・オブ・ミュージックで有名なトラップ家ロッジ(英語では、ファン・トラップ家(von Trapp family)と言います。)に行きました。またマサチューセッツ州のプリマスやケープコッド、ハイアニスにあるジョン・F・ケネディの別荘や博物館にも訪れました。
別の大学訪問では、ニュージャージー州プリンストン、バージニア州シャーロッツビル、ウィリアムズバーグを訪れたり、カリフォルニア州のスタンフォード、バークレー、ロサンゼルスなどを訪問しました。
この時期の旅行の思い出は、何といってもキャンピングカーでのグランドサークルの旅です。10代の娘2人を抱える親としてはこれが最後の家族旅行だと思い、嫌がる長女と次女をなんとか一緒に連れていきました。
ユタ州ラスベガスからスタートし、ザイオン・キャニオン、ブライス・キャニオン、アリゾナ州モニュメントバレー、奇妙な造形をした砂岩に囲まれた渓谷アンテロープ・キャニオン、そしてグランド・キャニオンと周り、最後にまたラスベガスと、個人的には夢のキャンピングカーでの旅となりました。
宿泊場所は、ラスベガスを除きキャンピングカーの中ですが、食事はいつもキャンピングカーの中とはいかず、3回に1回くらいはレストランで食事をしました。
最近になって長女から、あの旅は良かったと聞いたので、若干無理やり連れて行って良かったと思っています。もちろんこれは親のエゴですが。
別の機会の家族旅行ではジャマイカに訪れました。
その他、長女のクラブチームの地方大会遠征で、長女と2人でインディアナ州インディアナポリスに行きました。長女が活躍するバレーボールの試合を見るのは本当に楽しかったです。なお、長女は妻とボストン、ワシントンDCなども遠征で訪れています。
出張では、ニュージャージー州トレントン、ペンシルベニア州フィラデルフィア、ピッツバーグ、ウェストバージニア州チャールストン 、カリフォルニア州サンフランシスコ、キューバ、トリニダード・トバゴなどを訪れました。
5回目の駐在(メリーランド州ベセスダ)では、長女とマンハッタンを経由してボストン近郊にある大学まで一緒に行き、入寮を手伝いました。この旅は、19歳の大学2年生になる長女との車の旅であり、国際情勢からアメリカの政治などいろいろなことを話することができ、父親として本当に思い出となるありがたい旅でした。
28歳までにアメリカ50州を制覇しましたが、このようにその後もいろんな場所を訪れています。そして今後もアメリカを探索し続けます。
Friday, December 31, 2021
アメリカ駐在:自家用車の変遷
アメリカに15年以上住んでいますと、いろんな場所を訪れました。そして、さまざまな車に乗ってきました。所有した各々の車には過去の思い出がたくさん詰まっています。
これだけアメリカに住んでいますと、新車を買うという発想を捨てています。なぜなら車は新車購入から3年目から5年目が最も価格が下がるからです。多くの駐在員の方は、流石に奥様用の2台目は、「もし運転中に故障したら」と万一のことを考えて新車を購入しています。なお、会社がリース代を負担する駐在の方々は常に新車に乗っており、羨ましい限りです。
過去に私が所有した車は以下の通りです。
大学院時代(カリフォルニア州ロサンゼルス:1989年7月〜、インディアナ州ブルーミントン:1990年9月〜1991年7月)だけは、Pontiac Grand AMのマニュアル式2ドアを新車で買いました。このマニュアル式の車で制覇した州は、アラスカ州やフロリダ州、サウスダコダ州を含め40州近くです。その後、50州を制覇した時は28歳でした。
駐在1年目(バージニア州ロズリン:1991年7月〜)は1975年のPorsche 914、2年目(ワシントンDC:1992年7月〜1993年7月)から2台目となる1988年のSAAB 900 Turboも購入し、この2台を気分次第で乗り回していました。Porsche 914は天井を取り外しできる2人乗りオープンカーです。SAAB 900 Turboはその名の通りターボ機能が付いており、非常に加速がよかったです。
2回目の駐在時代(カリフォルニア州ロサンゼルス:2002年7月−2005年3月)は、1988年のBMW 325i convertible、妻用に1998年の Honda CRVを購入。BMWは14年落ちのかなり古い車ですが、4人乗りのオープンカーでした。この時から、いつかはトップ(天井)がハードで自動開閉できる4人乗りオープンカーに乗ることを夢見るようになりました。
3回目の駐在時代(ニューヨーク州マンハッタン:2007年7月史〜2011年1月)は、14年ものの1993年のToyota Camryでした。6気筒で排気量は3L、185馬力ありましたので、10歳以下の娘2人を含む家族4人でのドライブには十分の排気量と馬力です。購入時に既に14万マイル走っていたので23万キロ弱も走っている車を購入したということです。日本では考えられない走行距離だと思います。
4回目の駐在時代(ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライ:2016年6月〜2020年7月)は、2013年のToyota Sienna SEと2003年のVolkswagen Jetta を購入しました。当初は、子供の送り迎えのことを考えてSiennaは妻用、Jettaは私用と考えていましたが、どうやら妻にはSiennaは大きすぎ、普段の買い物はJettaを乗り回していました。しかし、Jettaは2003年製造の車で、13年ものの車で走行距離も12万マイル(20万キロ弱)。あまりにも妻がかわいそうに思い、2018年に8年落ちの2010年のHonda Civicのセダンに買い替えました。このCivicは相当乗り心地が良く小回りも効くので妻は愛用していました。途中から16歳で運転免許を取った長女もたまに運転していました。
Sienneは6気筒で排気量は3.5L、266馬力もあり、高校生と中学生の娘2人を含む家族4人での長距離旅行は全く問題ありませんでした。
5回目の駐在(メリーランド州ベセスダ:2020年7月〜)では、2020年7月、ニューヨーク州ウェストチェスター郡ライから家族でSiennaとCivicを運転して引っ越しました。次女は2020年8月中旬から暖かい州にあるボーディングスクールに引っ越し、長女は同年9月上旬にボストン近郊の大学に引っ越したので、Siennaのような8人乗りバンは不要になりました。2020年9月、Siennaを売り2010年製造のLexus RX350を購入。Lexus RX350 は6気筒、排気量は3.5LとSiennaと変わりませんが、Siennaよりも軽く275馬力もあります。10年落ちのこの車も走行距離は12万マイルちょっとということは20万キロも走った車を買ったわけです。
10月上旬に妻が帰国したため、とうとう私の1人暮らしが始まりました。そこで、かねてからの夢であったトップがハードで自動開閉式の4人乗りオープンカーを探し求め、10月下旬、Civicを売り、2010年製造のLexus IS250Cを購入しました。2ドア6気筒で排気量は2.5Lで204馬力です。走行距離はLexus RX350と同様12万マイルちょっと(20万キロ)。私にとっては10年ものですが、まさに夢の車です。今では冬でもオープンカーにして走っています。
以上のように我が家の車は、自分用でも妻用でも10年落ちで走行距離12万マイル(20万キロ弱)の中古車購入は当たり前です。他の日本人の駐在員の方からすると、そんなに古くてマイルも走った中古車を買うなんて、ちょっと信じられないのではないかと思います。でも我が家は平気で、これまで故障等で困ったことは一度もありません。そしてアメリカでもこれまで無事故無違反です。
過去に乗った車、今乗っている車には、人生の思い出が一杯詰まっていますので、いつも大事に乗っています。
16歳の長女のTOEFL iBTのスコア
娘は2人ともアメリカ人なので、TOEFLとは縁がないと思っていました。しかし、ニューヨーク州ライに住んでいた当時16歳の長女がなぜか関心を持ったため、遊び半分で受験することになりました。遊び半分と言っても受験料を払うのは親ですが、親も気持ち半分はネイティブの長女がどのくらいの点が取れるのか興味があったので、長女が受験することを簡単に了解してしまいました。
2019年8月にNY州Purchaseで受験したことを覚えています。
2020年7月にメリーランド州モントゴメリー郡ベセスダに引っ越しましたが、最近、家の掃除をしてると、長女のTOEFL iBTのスコア用紙を発見しました。
長女のスコアは111点。内訳は次の通りです。
Reading:27点
Listening:29点
Speaking:29点
Writing:26点
満点は120点で、4種目の試験の満点はそれぞれ30点です。
ネイティブの長女は、母国語の試験で満点を取れなかったことに少しショックを受け、不機嫌になったことを記憶しています。
親としては、試験対策を一切しなかった16歳が初めてのTOEFL試験で111点を取ったのですから、まあしょうがないねと、長女を慰めました。
いかなる試験も、舐めてかからず、周到な準備をして臨むべきですね。
人生はタイミングがすべて(その3:妻はもうすぐ大学院生)
人生は、タイミングがすべて。
人生はタイミングがすべて(その2:「地獄の苦しみ」は2年間から1年間へ短縮!?)
長女と次女は2歳差です。したがって、本来であれば学年は「2学年差」のはずですが、ある時から「3学年差」となってしまいました。「3学年差」になった時は次女に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、その後、この「3学年差」が大事になってくることは、当初は夢にも思いませんでした。
2010年12月暮れに1回目のニューヨークでの生活を終え帰国する時点で、マンハッタンの公立学校で長女は小学3年生、次女は小学1年生でした。帰国後、アメリカンスクールに転入する際、「学年を決める生年月日の基準」が、マンハッタンの公立学校と違っていたため、長女はそのまま小学3年生として転入しましたが、次女は残念ながらキンダーガーデンへの転入となっていました。
次女は、ニューヨークで小学1年生を1セメスター経験していたのに、帰国したら幼稚園生に戻るなんて、少し屈辱的だったかもしれません。親としては、かわいそうで仕方がありませんでした。
ということで、2011年1月、アメリカンスクールに転入した長女と次女の「学年の差」が「2年」から「3年」に開いてしまいました。
このことは、実は将来、親にとり、とても重要になるのでした。
現在大学2年生の長女は、次女が大学に入学する時は大学4年生になります。即ち「2023年9月から2024年5月まで」の期間が「長女も次女も大学生」の期間となります。この年の授業料と寮費は2人分で1600万円を超えると思います。返済不要な奨学金が得られ、学費ローンを借りても、親の負担は2人分で1000万円を超えるものと覚悟しています。
翌2024年9月に次女は大学2年生となりますが、長女は卒業しているため、大学の授業料・寮費は一人分で済むことになります。
これは、2011年1月にアメリカンスクールに転入する時に長女と次女の「学年の差」が「3年」になったおかげです。あの時、次女がアメリカンスクールの小学1年生に転入していれば、「長女と次女が同時に大学生の期間」が「2年間」となり、2022年と2023年は、親として大学の授業料を2人分払わざるを得ない「地獄の2年間」となっていたことでしょう。
もちろん、親が負担する子供の教育費の全体額は変わりませんが、やはり、人生、タイミングはとても重要ですね。
人生はタイミングがすべて(その1)
人生を改めて振り返ると、人生は「タイミング」であり、ある意味、「タイミングがすべて」であることを実感しています。
子供の教育においてもタイミングが重要です。
長女も次女もロサンゼルスで生まれ、2人ともアメリカ市民権を得ました。2人目を授かるタイミングか、アメリカを離れる私の転勤のタイミングがずれていれば、次女はロサンゼルスで生まれておらず、アメリカ市民権を得られなかったかもしれません。
次女はキンダーガーデン(幼稚園)の入学からエレメンタリースクール卒業まで同じ学校に通えました(東京のアメリカンスクール)。
長女も次女もミドルスクールを入学から卒業まで同じ学校に通えました(長女は東京のアメリカンスクール、次女はNY州ライ・ミドルスクール)。
長女はハイスクールを入学から卒業まで同じ学校に通えました(NY州ライ・ハイスクール)。
これらは、私の転勤のタイミングでたまたまそうなったわけですが、長女と次女が、節目節目で同じ学校に入学から卒業までずっと通えたことは、学業の観点、友達作りの観点、それらが及ぼす精神的な観点から、本当に良かったようです。
もう一つよかった点は、東京のアメリカンスクールは、キンダーガーデン(幼稚園)からハイスクールまで同じ敷地にあったことです。そのため長女と次女は5年半の間、一緒に通学できました。
また、NY州ウェストチェスター郡ライ市の公立学校である、ライ・ミドルスクールもライ・ハイスクールも同じ敷地にあったので、毎朝私が娘2人を車で学校まで送っていました。所要時間はたった5分ですが。なお、次女にとり、同じ敷地に姉(長女)がいたことは、心のどこかで安心できていたようです。
人生は本当にタイミングですね。
2021年の年末:一家団欒
2021年12月中旬から 久方ぶりに家族全員が集まりました。妻は1年2ヶ月ぶり、次女は4ヶ月ぶり、長女は3ヶ月ぶりの再会です。
昨年のクリスマスは、妻は1人で日本におり、私と娘2人でホノルルで休暇を取りました。今年は12月13日に次女が、12月21日に長女が遅まきながら大学の寮からメリーランド州のベセスダの自宅に帰省。それ以降、一家団欒が続いています。
来年1月2日には次女はボーディングスークルに戻るので、それまでの期間を大事にして、できるだけ家族でいろんなことをしています。
12月24日は、次女と2人でフリーア美術館の「北斎展」を鑑賞。
12月25日の朝は、クリスマスツリーの下に置かれた各人から各人宛てのプレゼントを開ける我が家伝統の儀式を行い、次女の手作りの夕食をみんなで堪能しました。
12月26日は、妻と長女と一緒にワーナーシアターでワシントン・バレエ団の「くるみ割り人形」を鑑賞。
12月28日は、妻と次女と一緒にボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学のキャンパスツアーに参加。非常に優秀な総合大学ですが、学部生は5500人しかいないリベラルアーツ並みの規模の大学です。次女は将来大学で環境科学の研究調査を行いたいそうで、この大学は研究調査が非常に強い大学であるので、魅力的に感じました。
その日の夜は、ベジタリアンの次女のことを考えて、ベセスダにある健康食が売りの「True Food Kitchen」レストランで家族全員で夕食を取りました。
12月29日は、長女と次女は、メリーランド州ロックビルにあるロックビル・タウンスクエアの小さな屋外アイススケート場でアイススケートをしました。私は運転手役でした。長女と次女はアイススケートも楽しンダようですが、どうやら滑りながらいろんなお話を姉妹でしたみたいです。
その後、3人でメリーランド州シルバースプリングに移動し、「Regal Majestic & IMAX」劇場で「スパイダーマン:ノーウェイ・ホーム(Spider-Man: No Way Home)」を鑑賞しました。歴代のスパイダーマンが登場するのですが、非常によくできた楽しい映画でした。
12月30日午前は、妻と一緒にバンク・オブ・アメリカに行き、妻だけの銀行口座を開き、デビットカードやクレジットカードも作りました。これは、来年8月からの妻の大学院進学に備えての準備です。
その日の午後は、長女と次女はCVSでHPVワクチンを接種。私はまた運転手役。その後、Safewayで私が帯状疱疹のワクチンを接種しました。
12月31日は、家族全員でスミソニアンのアメリカ美術館(American Art Museum)(この美術館の中にある国立肖像画ギャラリー(National Portrait Gallerry)も含む)、レンウィック・ギャラリー(Renwick Gallery)などを訪れました。移動の途中で、ラファイエット広場からペンシルベニア・アベニューを挟んだところにあるホワイトハウスを外から見学。家族で記念写真を撮りました。
このように、2021年の最後を喧嘩もせずに一家団欒で過ごすことができ、とても感謝しています。
*1枚目の写真は大統領執務室があるウエスト・ウイングの建物。
*2枚目の写真は、大統領夫妻が住んでいるレジデンス等があるホワイトハウス。大統領がよく記者会見をするイーストルームもこの中にある。3階は大統領のプライベートクウォーター。
妻、アメリカの永住権取得!(その13:「1年2ヶ月」もの「首が回らない」期間)
2020年10月11日に妻が帰国したことにより、我が家は、物理的に「一家離散」状態となりました。家族の居住地は、私はメリーランド州ベセスダ市、妻は東京、長女はマサチューセッツ州ボストン近郊、次女はある暖かい州の州都と、家族全員が異なる地域にバラバラで生活することになりました。
最も大変だったことは、「懐事情」です。私の生活費に、妻の東京での生活費加わりました。そもそも長女の学費・寮費(8万ドルちょっと)への親の出費は4万4千ドル、次女の寮付き私立高の学費・寮費(6万5千)への親の出費は2万4千ドルもあるので、まさに「首が回らない」状態となりました。
妻が2020年10月11日に帰国してから2021年9月29日に「移民ビザ」を取得するまでの期間は約「1年間」ですが、妻は、「移民ビザ」を取得した後、2021年11月23日まで日本に残りました。したがって、妻は、日本に「1年1ヶ月ちょっと」生活したことになります。妻はこの期間、本当に大変だったと思います。
更に妻は、2021年11月23日に日本を発ってハワイ州ホノルルに永住者として入国して以降、2021年12月12日までホノルルに滞在しました。妻は暖かいところで、ごく短い期間ですが、少しでもリハビリができたことを祈っています。
ということで、2020年10月11日から2021年12月12日までのこの「1年2ヶ月間」は、財政的にも相当辛い期間でした。しかし、妻はこれで永住者としてアメリカで生活することになりますので、アメリカでのこれからのことを考えると、夢は膨らみます。
妻、アメリカの永住権取得!(その12:「移民ビザ」でアメリカに入国した意味)
妻が苦労の末、「移民多様化ビザ抽選プログラム」に申請して取得した「移民ビザ(Immigrant Visa)」(2021年9月28日発行)のコピーを下に貼り付けます。
「移民ビザ」は米国に永久に居住する人のためのビザです。この「移民ビザ」で入国する際、入国が許可された時点で(妻の場合は2021年11月23日)、渡航者(妻)は「米国永住者の資格」を得たことになります。妻のパスポートの「移民ビザ」の下の方に「Upon Endorsement Serves as Temporary I-551 evidencing permanent residence for 1 year」と印字されていますが、これがその証拠です。この「1年間」の記載は、これは妻の「永住者の地位」が1年間しかないという意味ではありません。「永住カード(I-551)/(俗称)グリーンカード」が届く期間の猶予が1年間あるという意味です。したがって、既に入国した妻は、「永住者の地位」を取得したわけで、このパスポートの「移民ビザ」を見せれば、アメリカで働けることになります。
なお、妻の「移民ビザ」の有効期限は「2022年1月5日」までとなっていますが、これは、妻の「永住者の地位」が来年の1月5日まで、という意味ではありません。「移民ビザ」を取得したら、取得してから6ヶ月以内ではなく、日本で受けた健康診断受診日から6ヶ月以内(妻の場合、2021年1月5日が期限)にアメリカに渡航しなければ、それを過ぎて渡航しても、永住者としての入国は認められない、ということです。
「永住者カード(I-551)/(俗称)グリーンカード」は、入国後、120日以内(通常は2ヶ月以内)に米国の居住地宛に郵送されます。「永住者カード」は、米国における「合法的永住資格の証明」です。このカードは有効な「身分証明書」でもあり、米国に「居住」し「就労」することが可能であるという証明でもあります。
妻、アメリカの永住権取得!(その11:アメリカに永住者として入国!)
2021年9月29日、移民ビザが貼られた妻の日本のパスポートがアメリカ大使館から郵送されて来ました。
あとは、関係書類と移民ビザが貼られた日本のパスポートを携行してアメリカに無事入国できれば、アメリカの永住者となります。
妻は、入国するアメリカの都市をハワイ州ホノルルに決めました。なぜなら、「移民多様化ビザ抽選プログラム」を通して「移民ビザ」を入手した多くの日本人が、ホノルルから入国しているため、ホノルル国際空港の入国審査官は、妻のような立場の者の審査に慣れていると思ったからです。
2021年11月23日、妻は成田空港を飛び立ち、同日、ホノルル国際空港(ダニエル・K・イノウエ国際空港)に到着。
「移民多様化ビザ抽選プログラム」を通して取得した「移民ビザ」を携行した者がアメリカに初めて入国する場合、入国管理審査官により別室に連れていかれて、色々と尋問を受けることが多いと聞きましたが、さすがはホノルル国際空港。妻は別室に連れていかれることなく、通常の入国審査レーンの先の入国審査場所(入国審査官が入っているボックスの前)で、関係書類を入国審査官に渡し、入国審査官が所定の手続をとり、特に特別な質問もなく、パスポートに入国のスタンプを押され、入国できたそうです。
入国できたということは、妻はアメリカで永住者の地位を得たということであり、今後、アメリカで永住者として生きていくということになります。
妻、アメリカの永住権取得!(その10:アメリカ大使館での面接)
2021年9月27日(月)午前8時にアメリカ大使館で行われた妻の面接内容を記します。面接は、非常に和やかな雰囲気の中で進み、所要3分程度だったそうです。
1 これから答えることは真実であることを誓うか。
2 あなたは、若しくはあなたの夫は、ワシントンDCで働いているか。
3 今回永住権を申請するのは、あなただけか。
4 子供2人は米国市民権を有しているか。
5 アメリカ国内でワシントンDC以外にどの都市に住んだことがあるか。
6 アメリカに計何年住んでいたか。
7 アメリカで住んだ都市で、どの都市がよかった?
最後の質問に回答した後、妻は指紋を取られて面接が終了したとのこと。「移民多様化ビザ抽選プログラム」に当選後、アメリカ大使館での面接までこぎつけると、「移民ビザ」の取得はまず大丈夫だと言われています。
妻、アメリカの永住権取得!(その9:KCCレター(アメリカ大使館の面接日時の通知))
2021年9月25日(土)にKCCから妻宛てに届いた2021年9月24日付レターを下に貼り付けます。
このレターには、
①アメリカ大使館による妻の面接を2021年9月27日(月)午前8時に設定したこと、
②KCCは妻のケースの処理を完了したこと、
が記されています。