昨日、米国内では25回目となる独立記念日をワシントンDCで祝いました。アメリカ国民は、どんな思いで花火を見てたのでしょうか。
毎年7月4日は米国民の休日です。仕事や学校を休んで、地域の人たちや家族と共に1日中ピクニックを楽しみ、ホットドッグ、ハンバーガー、ベークドビーンズ、パイ、スイカなどを食べます。「建国の父」や初期の入植者に扮した人たちが、高校の楽団の演奏でパレードをする町もあります。夕暮れには、市が主催する花火大会に人々が集まります。
アメリカが独立するまでには長い年月を要しました。そもそもアメリカは、3万年くらい前にアジア系のモンゴロイドが、凍結したベーリング海などを渡ってシベリアからアラスカを経由して広大な南北アメリカ大陸各地に分散していったと言われています。所謂ネイティブ・アメリカンです。
その後、ルネサンスの時代、ポルトガルとスペインがいち早く遠洋航海技術を身に付け、大航海時代に入りました。イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブスはスペイン女王の承諾を受け、大西洋周りによるアジア発見を志しましたが、1492年に西インド諸島に到達しました。1498年には、英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し英国がこれを領有(ニューイングランド植民地)、1534年フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川を遡ってこれをフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓、ネイティブ・アメリカンに対する領土略奪などがはじまりました。
1700年代半ばまでには、大英帝国の一部であった13の植民地の人々は、英国の税金を課されることに不満を抱いていました。多くの入植者は自治を望み、英国による統治から解放されたいと思うようになりました。
最終的には、2つの大きな出来事が、英国に反抗する入植者たちを統一させました。一つは、1770年3月5日の「ボストン虐殺事件」であり、もう一つが、1773年12月16日の「ボストン茶会事件」でした。
バージニア州の代議員たちは、各植民地を代表する大陸会議という委員会を設立することを票決して、独立への最初の1歩を踏み出しました。第1回大陸会議は1774年9月に開催され、12の植民地から代表者が出席しました。彼らは、王権に対する苦情の一覧を作成し、これが独立宣言の原案となりました。
1775年4月19日、英国軍がマサチューセッツ州の民兵軍を襲撃しようとしたことから、独立戦争が始まりました。入植者たちは直ちに戦闘部隊を組織し、英国軍に対抗した。
1775年5月には第2回大陸会議が開かれ、バージニア州の代議員ジョージ・ワシントンが大陸軍の総司令官に選出されました。ワシントンは、独立戦争中を通じてアメリカ軍を率い、英軍に対抗しました。入植者たちはそれから8年間にもわたり、独立を求めて必死に戦いました。
ペンシルベニア州フィラデルフィアでは、1776年7月2日、大陸会議は苦情の一覧の第2稿を作成し、大陸会議の議長ジョン・ハンコックがこれに真っ先に署名をしました王権はこの文書、すなわち独立宣言を反逆とみなし、これに署名した56人は処刑される恐れがありました。それでも大陸会議は、1776年7月4日に独立宣言を承認し、英国とのつながりを正式に断ち切って、新たな独立国家、アメリカ合衆国を形成しました。
独立記念日を7月4日に祝うのは、その日に英国からの独立が正式に宣言されたからです。1776年7月8日には、独立宣言が初めて公に読み上げられ、市民はこれを祝いました。鐘が鳴り、楽団が音楽を奏で、船は祝砲を撃ち、人々はろうそくをともし、花火を上げました。
独立戦争はその間も続き、最終的に独立が勝ち取られたのは1783年のことでした。その年、13の新しい州で独立記念日が祝日に指定されました。
独立記念日が正式に連邦政府の法定休日とされたのは1941年のことでした。