Wednesday, April 20, 2022

永住者としての「ソーシャル・セキュリティ・カード」取得の苦労(その2)

妻は、就労制限のないソーシャル・セキュリティ・カードを入手するために、まず、手続きを調べました。

社会保障局のウェブサイト (https://www.ssa.gov/)で調べると、手続きを意外と簡単でした。

「ソーシャル・セキュリティ・カード申請書」、「古いソーシャル・セキュリティ・カード」、そして「グリーン・カード」を持って、近くの「ソーシャル・セキュリティ・オフィス」で申請すれば良いことがわかりました。


問題は、シルバースプリングにある「ソーシャル・セキュリティ・オフィス」に予約を取ろうとしても、電話が全くつながらないことでした。


2022年1月終わりに、2時間くらい何度も電話をかけたらやっと繋がったため、3月31日(木)に予約を取ることができました。


3月31日(木)の朝一で、シルバースプリングのオフィスに行ってみたら、予約が取れていないことが判明。ショックでした。コロナ禍で予約が取れた者以外は取り扱わないそうで、冷たく追い返されました。その際、現場にいた警備員から、「必要な書類が揃っているのであれば、「ドロップ・オフ」もできるんだよ。」と言われました。申し込み用紙と関連書類を封筒に入れて、シルバースプリングの「オフィス内」にある「ドロップ・オフ・ボックス」に入れれば、その後、当局が審査して、「新たなソーシャル・セキュリティ・カード」を自宅に送付する、ということでした。


問題は、この「ドロップ・オフ」を行う場合、封筒に申請書類に加え、実物の「グリーン・カード」を同封するため、紛失する可能性があるかもしれないということです。


悩んだ妻は、結局、2022年4月4日(月)にシルバースプリングの「ソーシャル・セキュリティ・オフィス」に行き、「ソーシャル・セキュリティ・カード申請書」と「古いソーシャル・セキュリティ・カード」、そして「グリーン・カード」を封筒に入れて、「ドロップ・オフ」をしました。


あとは、「就労制限事項の記載のない新たなソーシャル・セキュリティ・カード」と「グリーン・カード」が届くのを待つのみとなりました。


予想に反し、1週間後の4月11日(月)に妻の「ソーシャル・セキュリティ・カード」が自宅に郵送されました。妻は、あまりにも早い取得に驚いていました。

2022年4月11日に届いた妻のソーシャル・セキュリティ・カード
ソーシャル・セキュリティ番号の上に就労制限事項の記載がない。
以前のカードと異なり、カードの中央最下部に「USA」の記載と
その右側にに発行日(2022年4月7日)の記載がある。


就労制限事項の記載のない「ソーシャル・セキュリティ・カード」を手にした妻は、喜びもひとしおだったようです。ところが、すぐに新たな懸念が浮上しました。

妻の「グリーン・カード」が同封されていなかったのです。

新たな「ソーシャル・セキュリティ・カード」は、どうやら社会保障局から直接送付されたようなので、妻の「グリーン・カード」が同封されることはないとは思いましたが、それでは一体、どこにあるのか?

「グリーン・カード」がなければ、妻が緊急の用事で急遽日本に帰国した場合、その後、再びアメリカに戻ったら、空港での入国ができないことになります。

焦っ私は、翌4月12日(火)に、シルバースプリングの「ソーシャル・セキュリティ・オフィス」に電話で確認することにしました。しかし、これまた電話をかけまくるのですが、なかなかつながりませんでした。何十回目の電話でやっとつながり、事情を話しました。オフィスの担当者は、このようなことはよくあることで、「グリーン・カード」は非常に重要なのでUPSで送付するが、自宅に誰もいなければ、「ソーシャル・セキュリティ・オフィス」に送り返されるのだと。担当者は、妻の個人情報を確認したうえで、「上司にメールで事情を説明し、あなたの配偶者の「グリーン・カード」がオフィスに戻ってきたら、再送するよう手配しておく。」と言われました。

半信半疑でしたが、担当者の言葉を信じで、翌週まで様子を見ることにしました。

翌週の4月18日(月)になっても妻の「グリーンカード」は届きませんでした。

翌4月19日(火)午前に、もう一度シルバースプリングの「ソーシャル・セキュリティ・オフィス」に電話をして、同じことを伝えました。担当者はまた同じことを繰り返すのみ。

その週に届かなかったら、4月25日(月)に、オフィスを訪れて確認をするつもりでした。

ところが同日(4月19日(火))の夕方、とうとう妻の「グリーン・カード」は、無事UPSで配送されたのでした。

これにはオチがあります。あれだけ「グリーン・カード」は大事なので、不在の場合は「ソーシャル・セキュリティ・オフィスに戻されると言っていたのに、妻がアマゾンで注文した商品が届いたので玄関を開けてみたら、その商品の上に、妻の「グリーン・カード」が入ったUPSの封筒がそっと置かれていたのでした。

あなおそろし。

ともあれ、妻はこれで、

①グリーンカード


②就労制限事項の記載のないソーシャル・セキュリティカード


③メリーランド州の運転免許証(リアルID)


④メリーランド州のナンバープレート(と自分名義の自家用車)

を取得。

これらに加え、⑤自分名義のクレジットカード、⑥自分名義の銀行口座と小切手を持っているので、アメリカで永住者として生きていく準備はほぼ整ったと言って良いでしょう。

Tuesday, April 19, 2022

永住者としての「ソーシャル・セキュリティ・カード」取得の苦労(その1)

妻は、2019年10月14日にアメリカ国務省が主管する「移民多様化ビザ抽選プログラム(Diversity Immigrant Visa Program)(俗称「DV抽選永住権プログラム」)」に応募。2020年6月6日に当選。同年10月11日に帰国。2021年9月27日に駐日アメリカ大使館で面接。9月28日にはアメリカの移民ビザが発行され、9月29日にこの移民ビザが貼られた妻のパスポートが手元に届きました。(移民ビザの取得)


そして、2021年11月23日に米国ハワイ州ホノルルに永住者として入国し、2021年12月23日にメリーランド州ベセスダの自宅に戻りました。(永住者としてアメリカに入国)


2022年1月13日には、メリーランド州の運転免許証を申請し、1月19日に取得できました。(アメリカの運転免許証の取得)


その後、すったもんだの末、2022年2月24日、妻が実物の「グリーンカード」を取得できたことは、以前説明した通りです。(グリーンカードの取得)


アメリカで永住者として生きていくためには、①グリーンカード、②運転免許証があればなんとかなります。しかし、もう一つ大事なものがあります。それは、③ソーシャル・セキュリティ番号(SSN)です。

妻は幸い、2002年に私の配偶者として、ロサンゼルスで自身のSSNは取得していました。(ソーシャル・セキュリティ・ナンバー(SSN)カードの取得)


ソーシャル・セキュリティとは、米国政府が行っている社会保障制度です。日本の年金制度のように、各個人の給与所得からソーシャル・セキュリティ税が毎月差し引かれます。アメリカで就労する人は必ず加入しなくてはなりません。このソーシャル・セキュリティ税を通算10年間支払うと、65歳になった時から支払った金額に応じて年金がおりる仕組みになっています。


SSNカードに記載されている番号は、社会保障局が個人に発行する9桁の社会保障番号です。戸籍制度のないアメリカでは、SNNは個々の住民を認識するためのIDとして重要な役割を果たします。


アメリカで就労する際には、必ずSSNが必要です。また、年金の受給、納税の申告、運転免許取得、銀行口座等の手続き、賃貸物件、電話、電気、ガス、ケーブルの契約、クレジットカードの申し込みなど、身元確認が必要になる時にもSSNが必要になります。

ただし、2003年以降は学生ビザで滞在している留学生がSSNを入手することは困難になり、それに伴って、今ではこの番号がなくても運転免許の取得、銀行口座の開設、アパートの賃貸などは可能になっています。


妻は、2002年にSSNカードを取得できたおかげで、同年、妻名義のクレジットカード(アメリカン・エキスプレス・カード)を取得し、過去20年間使用し、きちんと支払ってきたので、妻のアメリカにおけるクレジット・ヒストリーはかなり評価が高いです。 


ところで、SSNカードは、実はビザの種類によって異なり、就労に関する制限事項が記載されます。


昔のF1ビザの学生さんのSSNカードには、「NOT VALID FOR EMPLOYMENT」と書かれています。私は1989年にロサンゼルスに留学中にSS番号を取得しましたが、取得したSSNカードには、そう書かかれていました。

1989年にF1ビザを保有していた際に取得した私のSSNカード
「NOT VALID FOR EMPLOYMENT」と書かれている。
                 
次に、就労可能なビザ、たとえば、H-1BやL1ビザ又はEビザを保有してる方のSSNカードには、「VALID FOR WORK ONLY WITHIN INS AUTHORIZATION」と書かれています。

2002年に取得した妻のSSNカード
「VALID FOR WORK ONLY WITH INS AUTHORIZATION」
と記載されている。

最後に、アメリカ市民及び永住者は、SSNカードに制約事項が書かれていません。


上述の通り、2002年に妻が取得したSSNカードには、アメリカにおける就労の制限事項が書かれています。しかし、妻は今や永住者なので、カード上の就労制限事項を落としてもらう必要があります。すなわち、就労の制約事項がないようにSSNカードを訂正してもらう必要があります。

妻は、このSSNカードの訂正に、相当手こずりましたので、次回以降に報告します。


ちなみにアメリカ市民権を持っている娘2人は、ロサンゼルスで生まれた時に、出生証明書(Birth Certificate)と就労制約事項が記載されていないSSNカードを入手しています。

Monday, April 4, 2022

ワシントンDCの桜と歴代アメリカ大統領夫人

日本から贈られた3020本の桜は、シアトル経由で1912年3月26日に無事ワシントンDCにつきました。

1912年3月27日に、ポトマック河畔でタフト大統領夫人と珍田いわ駐米大使夫人が、2本の桜を植樹しました。この植樹式にはシドモア女史も陪席しています。

その後、日本から送られたワシントンDCの桜は、歴代大統領夫人と深い関わりを持つことになります。

1914年5月7日、ウッドロウ・ウィルソン大統領の三女エレノアとウィリアム・マカドゥー財務長官がホワイトハウスの「ブルールーム」で結婚式を挙げました。その際、エレン・ウイルソン大統領夫人は、ポトマック河畔の桜の花と白色のリリー、そしてドッグウッドの花でブルールームを飾りました。


フローレンス・ハーディング大統領夫人は、ホワイトハスの庭に桜の木を植えるよう庭師に指示しました。春には、桜の花でホワイトハウスの部屋を装飾したようです。

その40年後、ジャクリーン・ケネディ大統領夫人は、よく、その桜の木からとった桜の花でブーケを作らせたそうです。



1934年、DC市が3日間の桜祭りを主催しました。この桜祭りは、エレノア・ルーズベルト大統領夫人が積極的に関与したそうです。1934年4月19日午前6時、1912年にタフト大統領夫人と珍田大使夫人が植樹した最初の2本の桜の木の間で、ルーズベルト大統領夫人は、日本大使館関係者、桜の女王、ヘンリー・ルーズベルト海軍次官補の娘とともに「日の出式 (a 6:00am sunrise ceremony)」を開いたそうです。「日の出式」には、米海兵隊楽団の演奏、ダンスのパフォーマンスが行われました。また、3日間続いた桜祭りでは、航空ショー、パレードがあり、ワシントン・モニュメントにおいて花火が打ち上げられました。桜祭りのある夜には、ルーズベルト大統領夫人は、メイフラワーホテルで開催されたCherry Blossom Ballに出席し、桜の女王たちのダンスを観賞しました。


なお、1938年には、ジェファーソン・メモリアル建設に際して取り除かれる桜に女性団体が桜の木に体を縛り付けて抵抗するという出来事もありました。




エリザベス・トルーマン大統領夫人は、ホワイトハウスの庭に新しく植樹された桜の木の観賞を楽しみました。



マミー・アイゼンハワー大統領夫人は、1953年4月10日に行われた桜プリンセス・コンテストで全米のプリンセスに選ばれたオハイオ州出身で18歳のジャネット・ベイリーさんの載冠式に参加しました。

1953年4月10日、全米の桜クイーンに選ばれたベイリーさんに戴冠する
マミー・アイゼンハワー大統領夫人


クローディア・ジョンソン大統領夫人は、特に桜を愛した方だったようです。大統領夫人は「より美しい首都(a More Beautiful Capital)委員会」を創設し、ナショナル・モールに多くの桜を植えることにしました。ジョンソン大統領夫人は、1965年4月6日の全米桜祭りの開会式に出席し、「1912年のタフト大統領夫人と珍田大使の植樹式」を再現すべく、武内駐米大使夫人とともに桜の木を植樹しました。その植樹式の場で武内大使夫人は、佐藤栄作首相が3800本の桜の木をワシントンDCに寄贈することを発表しました。

 1965年4月4日、ポトマック河畔で植樹をするジョンソン大統領夫人


パトリシア・ニクソン大統領夫人も桜が大好きでした。1969年4月14日、ニクソン大統領夫妻は、ポトマック河畔を散歩し、日本からの贈り物である美しい桜の満開を堪能しました。

1969年4月14日、ポトマック河畔を散策しながら桜を堪能するニクソン大統領夫妻

全米各州の桜プリンセスたちをホワイトハウスに最初に招待したのはニクソン大統領夫人です。1970年4月9日、全米各州の桜プリンセスたちは、ホワイトハウスでニクソン大統領の長女トリシア・ニクソン嬢と記念撮影におさまりました。

1970年4月9日パトリシア・ニクソン嬢と各州の桜プリンセスたち@ホワイトハウス


ベティ・フォード大統領夫人も同様に桜を愛した方でした。1976年4月7日、48人の桜プリンセスたちがローズガーデンに集まり、ベティ・フォード大統領夫人の誕生日をお祝いしました。


1976年4月7日、ホワイトハウスのローズガーデンで桜プリンセスたちを歓迎するベティー・フォード大統領夫人


ロザリン・カーター大統領夫人は、1979年4月5日、全米の桜プリンセスたちをホワイトハウスのローズガーデンに招待し、ジミー・カーター大統領が彼女たちを歓迎しました。

1979年4月5日、カーター大統領と全米各州の桜プリンセス@ホワイトハウス


1981年1月、ナンシー・レーガン大統領夫人は、大河原駐米大使に3フィートの桜の木を贈呈しました。その桜の木は、アメリカ国立樹木園が、1912年に日本がワシントンDCに贈呈した桜の木から挿木で増やした木でした。


1981年2月24日、大河原駐米大使に桜の木を贈呈するナンシー・レーガン大統領夫人

レーガン大統領夫人から贈られた桜の木は、「里帰り桜」として日本に送られ、足立区皿沼にある舎人公園に「レーガン桜」として植樹され、今でも綺麗な桜の花を咲かせています。

足立区舎人公園の「レーガン桜」

レーガン大統領夫人は、全米桜祭りの名誉会長を務めるようになりました。


1984年4月2日、レーガン大統領は、ホワイトハウスのローズガーデンで全米各州の桜プリンセスたちを歓迎しました。

     President Ronald Reagan Greeting the 1984 Cherry Blossom Princesses in the White House Rose Garden

     President Ronald Reagan Greeting the 1984 Cherry Blossom Princesses in the White House Rose Garden

     1984年4月2日、桜プリンセスたちをホワイトハウスで歓迎するレーガン大統領


1992年4月8日夕方、第41代ブッシュ大統領夫妻は、ポトマック河畔を散策しながら桜の花を鑑賞しました。


1992年4月8日夕方、タイダル・ベイスンをジョージ・ブッシュ 第41代大統領と散策するバーバラ・ブッシュ大統領夫人


1993年4月13日、クリントン大統領は桜の季節にホワイトハウスの周りをジョギングしました。



1997年と1999年には、ヒラリー・クリントン大統領夫人がポトマック河畔での桜の木の植樹式に参加しました。

1997年4月10日、桜祭り開会式で挨拶をするヒラリー・クリントン大統領夫人

1997年4月10日、桜の木を植樹するヒラリー・クリントン大統領夫人


2001年3月25日、ローラ・ブッシュ大統領夫人は、ケネディ・センターにおける大規模な全米桜まつり開会式に出席しました。

2001年3月25日、全米桜祭り開会式に出席して柳井駐米大使と一緒に鏡開きに参加するローラ・ブッシュ大統領夫人


2004年3月31日には、ローラ・ブッシュ大統領夫人は、各州の桜プリンセスたちをホワイトハウスに招待し、イーストルームで一緒に記念写真におさまりました。

2004年3月31日、 桜プリンセスをホワイトハウスのイーストルームで歓迎する
ローラ・ブッシュ大統領夫人

2012年3月27日、日本からの桜の木の贈呈100周年を記念して、ミッシェル・オバマ大統領夫人は、ポトマック河畔にて、「1912年のタフト大統領夫人と珍田大使の植樹式」を再現すべく、タフト大統領のひ孫であるウィリアム・タフト四世夫妻と藤崎駐米日本大使夫人と一緒に新たな桜の木を植樹しました。


2012年3月27日、桜の木を植樹するミッシェル・オバマ大統領夫人


このように、日本から贈られた110年の歴史を刻むポトマック河畔の桜の木は、歴代アメリカ大統領夫人(そして大統領)ととても深い繋がりがあります。

日本がワシントンDCに桜の寄贈が実現できた理由

 1912年の日本からワシントンDCへの3020本の桜の寄贈は、紀行作家シドモア女史、タフト大統領夫人、高峰譲吉博士、当時は衆議院議員で東京市長も兼務していた尾崎行雄氏をはじめとする多くの方々の尽力なしでは実現できませんでした。そもそもタフト大統領夫人は、ポトマック河畔を美したいと考えており、そこに日本の桜に魅せられていたシドモア女史がポトマック河畔を日本の桜を進めたら、タフト大統領夫人は同意して桜を集めるように指示をしたのがきっかけです。

なお、シドモア女史は、お兄さんがアメリカの外交官で、日本のアメリカ領事館に長年勤務していたこともあり、シドモア女史は何度も日本に滞在したことがあったようです。

シドモア女史

また、タフト大統領夫人も、1900年に日本を旅行で訪れたことがあり、その時に、日本の桜の美しさを知ったようです。

ヘレン・タフト大統領夫人

その後、シドモア女史と旧知の仲であったニューヨークの水野総領事と高峰博士が関与します。話はとんとん拍子に進み、1910年に2000本の桜の苗木が最初に寄贈されました。横浜からシアトルまでは、日本郵船が輸送費用を負担し、シアトルからワシントンDCまでの陸送費はアメリカ側が負担したようです。しかし、ワシントンに届いたものの、害虫被害により全て焼却処分になりました。

高峰譲吉博士

そこで尾崎東京市長は、特別に栽培した桜を作ることにしました。1910年4月21日、改めて東京市参事会決議で輸送費用を含め予め予算を措置しました。桜の権威、船津静作翁、三好学東大教授などの指導を得て、農商務省の古在由直(こざい・よしなお)農学博士に害虫に強い桜の苗木の調達を依頼しました。苦労を重ね、兵庫県伊丹の東野で育成されたヤマザクラの台木と、東京の荒川堤の五色桜から採った枝(穂木(ほぎ))を静岡県の興津(おきつ)園芸試験場で接木し育て、青酸ガスを用いた燻蒸処理などを施された桜が贈られたそうです。

珍田駐米大使夫妻


このように、日本からワシントンDCへの桜の寄贈には多くの人が関わっていますが、なんといってもタフト大統領夫人、シドモア女史、高峰博士、尾崎東京市長が立役者でしょう。タフト大統領夫人がシドモア女史が親密な関係であったこと、シドモア女史と高峰博士は親交があったこと、高峰博士が寄贈のイニシアティブをとったこと、尾崎東京市長は衆議院議員も兼務しており国際派であったことが重要な要素だったと思います。

尾崎行雄東京市長 兼 衆議院議員

個人の強い思いと人と人とのつながりがあり、いろんな偶然も重なって東京からワシントンDCへの桜の寄贈が実現できたのだと思います。

なお、尾崎行雄さんは、1890年から1953年まで衆議院議員を勤められ、憲政史上最多の25回も当選されております。議員勤続年数も最多で、「憲政の神様/議会政治の父」と呼ばれています。

その後、尾崎衆議院議員(当時91歳)は、まだ占領下の1950年にアメリカの連邦議会に招待され、桜の寄贈について感謝を示す連邦議会の決議を受けています。尾崎さんは、ポトマック河畔を訪れ、自身が寄贈した桜の木を見て、歌を詠まれています。

「ポトマクの 桜をながめ 月に酔い 雪をめでつつ 我が身終へなむ」






Sunday, April 3, 2022

もう一つの桜の名所:メリーランド州モントゴメリー郡ケンウッド(Kenwood)

今年は、 1912年に当時の尾崎東京市長がワシントンDCに3020本の桜の木を贈って110年を記念する年です。桜が植えてあるタイダルベイスンで日本からの贈り物を堪能している多くの方々の姿を見て、尾崎東京市長をはじめ桜の寄贈に携わった日本の方々、そして日本からの贈り物を今日まで大切に育て、守ってきたアメリカの関係者の方々に心より深く感謝しました。

アメリカの関係者の方々が、戦争中も戦後も日本からの贈り物を大事に守り育てきたわけですから、感謝の念に堪えません。


実は、ワシントンDC近郊に、知る人と知る桜の名所があります。それは、メリーランド州モントゴメリー郡ケンウッドという場所です。同郡のベセスダとチェビーチェイスに隣接する街です。

ケンウッドには、およそ全ての家に桜の木が植えられています。これは、1930年代と40年代に地元の土地開発者が、将来の住宅購入者を惹きつけることを狙ってこの街を魅力的にするために桜を植えたそうです。今ではこの街に1200本以上の桜が植えてあります。

全ての家に桜の木が植えてあるのですから、満開の時のケンウッドの美しさは圧巻です。

この桜のシーズンは、ケンウッドでは路上駐車は禁止されています。美しい桜と豪邸を楽しみながら多くの人が街の中を練り歩いています。

私も、今年もケンウッドの桜を満喫しました。同じ桜を見て感動している地元住民や観光客の姿を見て、なんだか嬉しくなりました。



         ケンウッドの桜並木

桜は本当に心を平和にし、人と人とを結びつける力があると思いました。

桜の花言葉の一つに「精神美」があります。桜には、「美しさ」と「はかなさ」がありますが、翌春には必ずまた美しい花を咲かせるという「再生」という意味もあるかもしれません。

日米は、「友情」を結びましたが、いっとき、激しく戦い合いました。しかし、戦後は、「和解」をし、再び「友情」を育み、今では、揺るぎない「友情」を深めています。「桜」はまさに「日米の友情」を象徴する生きるシンボルだと思います。

Monday, March 28, 2022

ワシントンDCの桜

 先週、ワシントンDCのポトマック河畔(タイダル・ベイスン)の桜が満開でした。3月22日(火)夕方と3月25日(金)早朝に鑑賞してきました。

ポトマック河畔の桜並木は、世界の名所の一つになっており、この桜を堪能するために、多くの人で賑わっていました。鑑賞している人々は老若男女で多様性に富んでいました。同じもの(桜)で感動している彼らの姿を見ると、桜が本当に人々を結びつけているんだなと感じました。

当地の人々を感動させているポトマック河畔の桜は、110年前に当時の尾崎東京市長からワシントンDCへの贈り物であることは有名です。1910年に2000本の桜をワシントンDCに贈りましたが、到着した時には、桜が害虫に汚染されており、焼却を余儀なくされました。

その2年後の1912年、尾崎東京市長(兼衆議院議員)は、再び桜3020本を贈りました。横浜からシアトル経由で1912年3月26日にワシントンDCに到着。翌3月27日にポトマック河畔で式典が行われ、ヘレン・タフト大統領夫人と日本大使珍田(ちんだ)子爵夫人最初の2本の桜の植樹を行いました。この日から数えて今年は110年というわけです。実は、この2本の木は未だに生きており、それは美しい花を咲かせていました。

このように、多くの人々を感動させるポトマック河畔の美しい桜並木は、日米親善の生きる証でもあります。

世界に目を向けると、現在、ウクライナは大変なことになっています。桜の美しさを鑑賞できる平和のありがたみを感じるとともに、全世界の人々が安心して桜の美しさに感動できるような世界になることを願うばかりです。