Tuesday, April 19, 2022

永住者としての「ソーシャル・セキュリティ・カード」取得の苦労(その1)

妻は、2019年10月14日にアメリカ国務省が主管する「移民多様化ビザ抽選プログラム(Diversity Immigrant Visa Program)(俗称「DV抽選永住権プログラム」)」に応募。2020年6月6日に当選。同年10月11日に帰国。2021年9月27日に駐日アメリカ大使館で面接。9月28日にはアメリカの移民ビザが発行され、9月29日にこの移民ビザが貼られた妻のパスポートが手元に届きました。(移民ビザの取得)


そして、2021年11月23日に米国ハワイ州ホノルルに永住者として入国し、2021年12月23日にメリーランド州ベセスダの自宅に戻りました。(永住者としてアメリカに入国)


2022年1月13日には、メリーランド州の運転免許証を申請し、1月19日に取得できました。(アメリカの運転免許証の取得)


その後、すったもんだの末、2022年2月24日、妻が実物の「グリーンカード」を取得できたことは、以前説明した通りです。(グリーンカードの取得)


アメリカで永住者として生きていくためには、①グリーンカード、②運転免許証があればなんとかなります。しかし、もう一つ大事なものがあります。それは、③ソーシャル・セキュリティ番号(SSN)です。

妻は幸い、2002年に私の配偶者として、ロサンゼルスで自身のSSNは取得していました。(ソーシャル・セキュリティ・ナンバー(SSN)カードの取得)


ソーシャル・セキュリティとは、米国政府が行っている社会保障制度です。日本の年金制度のように、各個人の給与所得からソーシャル・セキュリティ税が毎月差し引かれます。アメリカで就労する人は必ず加入しなくてはなりません。このソーシャル・セキュリティ税を通算10年間支払うと、65歳になった時から支払った金額に応じて年金がおりる仕組みになっています。


SSNカードに記載されている番号は、社会保障局が個人に発行する9桁の社会保障番号です。戸籍制度のないアメリカでは、SNNは個々の住民を認識するためのIDとして重要な役割を果たします。


アメリカで就労する際には、必ずSSNが必要です。また、年金の受給、納税の申告、運転免許取得、銀行口座等の手続き、賃貸物件、電話、電気、ガス、ケーブルの契約、クレジットカードの申し込みなど、身元確認が必要になる時にもSSNが必要になります。

ただし、2003年以降は学生ビザで滞在している留学生がSSNを入手することは困難になり、それに伴って、今ではこの番号がなくても運転免許の取得、銀行口座の開設、アパートの賃貸などは可能になっています。


妻は、2002年にSSNカードを取得できたおかげで、同年、妻名義のクレジットカード(アメリカン・エキスプレス・カード)を取得し、過去20年間使用し、きちんと支払ってきたので、妻のアメリカにおけるクレジット・ヒストリーはかなり評価が高いです。 


ところで、SSNカードは、実はビザの種類によって異なり、就労に関する制限事項が記載されます。


昔のF1ビザの学生さんのSSNカードには、「NOT VALID FOR EMPLOYMENT」と書かれています。私は1989年にロサンゼルスに留学中にSS番号を取得しましたが、取得したSSNカードには、そう書かかれていました。

1989年にF1ビザを保有していた際に取得した私のSSNカード
「NOT VALID FOR EMPLOYMENT」と書かれている。
                 
次に、就労可能なビザ、たとえば、H-1BやL1ビザ又はEビザを保有してる方のSSNカードには、「VALID FOR WORK ONLY WITHIN INS AUTHORIZATION」と書かれています。

2002年に取得した妻のSSNカード
「VALID FOR WORK ONLY WITH INS AUTHORIZATION」
と記載されている。

最後に、アメリカ市民及び永住者は、SSNカードに制約事項が書かれていません。


上述の通り、2002年に妻が取得したSSNカードには、アメリカにおける就労の制限事項が書かれています。しかし、妻は今や永住者なので、カード上の就労制限事項を落としてもらう必要があります。すなわち、就労の制約事項がないようにSSNカードを訂正してもらう必要があります。

妻は、このSSNカードの訂正に、相当手こずりましたので、次回以降に報告します。


ちなみにアメリカ市民権を持っている娘2人は、ロサンゼルスで生まれた時に、出生証明書(Birth Certificate)と就労制約事項が記載されていないSSNカードを入手しています。

Monday, April 4, 2022

ワシントンDCの桜と歴代アメリカ大統領夫人

日本から贈られた3020本の桜は、シアトル経由で1912年3月26日に無事ワシントンDCにつきました。

1912年3月27日に、ポトマック河畔でタフト大統領夫人と珍田いわ駐米大使夫人が、2本の桜を植樹しました。この植樹式にはシドモア女史も陪席しています。

その後、日本から送られたワシントンDCの桜は、歴代大統領夫人と深い関わりを持つことになります。

1914年5月7日、ウッドロウ・ウィルソン大統領の三女エレノアとウィリアム・マカドゥー財務長官がホワイトハウスの「ブルールーム」で結婚式を挙げました。その際、エレン・ウイルソン大統領夫人は、ポトマック河畔の桜の花と白色のリリー、そしてドッグウッドの花でブルールームを飾りました。


フローレンス・ハーディング大統領夫人は、ホワイトハスの庭に桜の木を植えるよう庭師に指示しました。春には、桜の花でホワイトハウスの部屋を装飾したようです。

その40年後、ジャクリーン・ケネディ大統領夫人は、よく、その桜の木からとった桜の花でブーケを作らせたそうです。



1934年、DC市が3日間の桜祭りを主催しました。この桜祭りは、エレノア・ルーズベルト大統領夫人が積極的に関与したそうです。1934年4月19日午前6時、1912年にタフト大統領夫人と珍田大使夫人が植樹した最初の2本の桜の木の間で、ルーズベルト大統領夫人は、日本大使館関係者、桜の女王、ヘンリー・ルーズベルト海軍次官補の娘とともに「日の出式 (a 6:00am sunrise ceremony)」を開いたそうです。「日の出式」には、米海兵隊楽団の演奏、ダンスのパフォーマンスが行われました。また、3日間続いた桜祭りでは、航空ショー、パレードがあり、ワシントン・モニュメントにおいて花火が打ち上げられました。桜祭りのある夜には、ルーズベルト大統領夫人は、メイフラワーホテルで開催されたCherry Blossom Ballに出席し、桜の女王たちのダンスを観賞しました。


なお、1938年には、ジェファーソン・メモリアル建設に際して取り除かれる桜に女性団体が桜の木に体を縛り付けて抵抗するという出来事もありました。




エリザベス・トルーマン大統領夫人は、ホワイトハウスの庭に新しく植樹された桜の木の観賞を楽しみました。



マミー・アイゼンハワー大統領夫人は、1953年4月10日に行われた桜プリンセス・コンテストで全米のプリンセスに選ばれたオハイオ州出身で18歳のジャネット・ベイリーさんの載冠式に参加しました。

1953年4月10日、全米の桜クイーンに選ばれたベイリーさんに戴冠する
マミー・アイゼンハワー大統領夫人


クローディア・ジョンソン大統領夫人は、特に桜を愛した方だったようです。大統領夫人は「より美しい首都(a More Beautiful Capital)委員会」を創設し、ナショナル・モールに多くの桜を植えることにしました。ジョンソン大統領夫人は、1965年4月6日の全米桜祭りの開会式に出席し、「1912年のタフト大統領夫人と珍田大使の植樹式」を再現すべく、武内駐米大使夫人とともに桜の木を植樹しました。その植樹式の場で武内大使夫人は、佐藤栄作首相が3800本の桜の木をワシントンDCに寄贈することを発表しました。

 1965年4月4日、ポトマック河畔で植樹をするジョンソン大統領夫人


パトリシア・ニクソン大統領夫人も桜が大好きでした。1969年4月14日、ニクソン大統領夫妻は、ポトマック河畔を散歩し、日本からの贈り物である美しい桜の満開を堪能しました。

1969年4月14日、ポトマック河畔を散策しながら桜を堪能するニクソン大統領夫妻

全米各州の桜プリンセスたちをホワイトハウスに最初に招待したのはニクソン大統領夫人です。1970年4月9日、全米各州の桜プリンセスたちは、ホワイトハウスでニクソン大統領の長女トリシア・ニクソン嬢と記念撮影におさまりました。

1970年4月9日パトリシア・ニクソン嬢と各州の桜プリンセスたち@ホワイトハウス


ベティ・フォード大統領夫人も同様に桜を愛した方でした。1976年4月7日、48人の桜プリンセスたちがローズガーデンに集まり、ベティ・フォード大統領夫人の誕生日をお祝いしました。


1976年4月7日、ホワイトハウスのローズガーデンで桜プリンセスたちを歓迎するベティー・フォード大統領夫人


ロザリン・カーター大統領夫人は、1979年4月5日、全米の桜プリンセスたちをホワイトハウスのローズガーデンに招待し、ジミー・カーター大統領が彼女たちを歓迎しました。

1979年4月5日、カーター大統領と全米各州の桜プリンセス@ホワイトハウス


1981年1月、ナンシー・レーガン大統領夫人は、大河原駐米大使に3フィートの桜の木を贈呈しました。その桜の木は、アメリカ国立樹木園が、1912年に日本がワシントンDCに贈呈した桜の木から挿木で増やした木でした。


1981年2月24日、大河原駐米大使に桜の木を贈呈するナンシー・レーガン大統領夫人

レーガン大統領夫人から贈られた桜の木は、「里帰り桜」として日本に送られ、足立区皿沼にある舎人公園に「レーガン桜」として植樹され、今でも綺麗な桜の花を咲かせています。

足立区舎人公園の「レーガン桜」

レーガン大統領夫人は、全米桜祭りの名誉会長を務めるようになりました。


1984年4月2日、レーガン大統領は、ホワイトハウスのローズガーデンで全米各州の桜プリンセスたちを歓迎しました。

     President Ronald Reagan Greeting the 1984 Cherry Blossom Princesses in the White House Rose Garden

     President Ronald Reagan Greeting the 1984 Cherry Blossom Princesses in the White House Rose Garden

     1984年4月2日、桜プリンセスたちをホワイトハウスで歓迎するレーガン大統領


1992年4月8日夕方、第41代ブッシュ大統領夫妻は、ポトマック河畔を散策しながら桜の花を鑑賞しました。


1992年4月8日夕方、タイダル・ベイスンをジョージ・ブッシュ 第41代大統領と散策するバーバラ・ブッシュ大統領夫人


1993年4月13日、クリントン大統領は桜の季節にホワイトハウスの周りをジョギングしました。



1997年と1999年には、ヒラリー・クリントン大統領夫人がポトマック河畔での桜の木の植樹式に参加しました。

1997年4月10日、桜祭り開会式で挨拶をするヒラリー・クリントン大統領夫人

1997年4月10日、桜の木を植樹するヒラリー・クリントン大統領夫人


2001年3月25日、ローラ・ブッシュ大統領夫人は、ケネディ・センターにおける大規模な全米桜まつり開会式に出席しました。

2001年3月25日、全米桜祭り開会式に出席して柳井駐米大使と一緒に鏡開きに参加するローラ・ブッシュ大統領夫人


2004年3月31日には、ローラ・ブッシュ大統領夫人は、各州の桜プリンセスたちをホワイトハウスに招待し、イーストルームで一緒に記念写真におさまりました。

2004年3月31日、 桜プリンセスをホワイトハウスのイーストルームで歓迎する
ローラ・ブッシュ大統領夫人

2012年3月27日、日本からの桜の木の贈呈100周年を記念して、ミッシェル・オバマ大統領夫人は、ポトマック河畔にて、「1912年のタフト大統領夫人と珍田大使の植樹式」を再現すべく、タフト大統領のひ孫であるウィリアム・タフト四世夫妻と藤崎駐米日本大使夫人と一緒に新たな桜の木を植樹しました。


2012年3月27日、桜の木を植樹するミッシェル・オバマ大統領夫人


このように、日本から贈られた110年の歴史を刻むポトマック河畔の桜の木は、歴代アメリカ大統領夫人(そして大統領)ととても深い繋がりがあります。

日本がワシントンDCに桜の寄贈が実現できた理由

 1912年の日本からワシントンDCへの3020本の桜の寄贈は、紀行作家シドモア女史、タフト大統領夫人、高峰譲吉博士、当時は衆議院議員で東京市長も兼務していた尾崎行雄氏をはじめとする多くの方々の尽力なしでは実現できませんでした。そもそもタフト大統領夫人は、ポトマック河畔を美したいと考えており、そこに日本の桜に魅せられていたシドモア女史がポトマック河畔を日本の桜を進めたら、タフト大統領夫人は同意して桜を集めるように指示をしたのがきっかけです。

なお、シドモア女史は、お兄さんがアメリカの外交官で、日本のアメリカ領事館に長年勤務していたこともあり、シドモア女史は何度も日本に滞在したことがあったようです。

シドモア女史

また、タフト大統領夫人も、1900年に日本を旅行で訪れたことがあり、その時に、日本の桜の美しさを知ったようです。

ヘレン・タフト大統領夫人

その後、シドモア女史と旧知の仲であったニューヨークの水野総領事と高峰博士が関与します。話はとんとん拍子に進み、1910年に2000本の桜の苗木が最初に寄贈されました。横浜からシアトルまでは、日本郵船が輸送費用を負担し、シアトルからワシントンDCまでの陸送費はアメリカ側が負担したようです。しかし、ワシントンに届いたものの、害虫被害により全て焼却処分になりました。

高峰譲吉博士

そこで尾崎東京市長は、特別に栽培した桜を作ることにしました。1910年4月21日、改めて東京市参事会決議で輸送費用を含め予め予算を措置しました。桜の権威、船津静作翁、三好学東大教授などの指導を得て、農商務省の古在由直(こざい・よしなお)農学博士に害虫に強い桜の苗木の調達を依頼しました。苦労を重ね、兵庫県伊丹の東野で育成されたヤマザクラの台木と、東京の荒川堤の五色桜から採った枝(穂木(ほぎ))を静岡県の興津(おきつ)園芸試験場で接木し育て、青酸ガスを用いた燻蒸処理などを施された桜が贈られたそうです。

珍田駐米大使夫妻


このように、日本からワシントンDCへの桜の寄贈には多くの人が関わっていますが、なんといってもタフト大統領夫人、シドモア女史、高峰博士、尾崎東京市長が立役者でしょう。タフト大統領夫人がシドモア女史が親密な関係であったこと、シドモア女史と高峰博士は親交があったこと、高峰博士が寄贈のイニシアティブをとったこと、尾崎東京市長は衆議院議員も兼務しており国際派であったことが重要な要素だったと思います。

尾崎行雄東京市長 兼 衆議院議員

個人の強い思いと人と人とのつながりがあり、いろんな偶然も重なって東京からワシントンDCへの桜の寄贈が実現できたのだと思います。

なお、尾崎行雄さんは、1890年から1953年まで衆議院議員を勤められ、憲政史上最多の25回も当選されております。議員勤続年数も最多で、「憲政の神様/議会政治の父」と呼ばれています。

その後、尾崎衆議院議員(当時91歳)は、まだ占領下の1950年にアメリカの連邦議会に招待され、桜の寄贈について感謝を示す連邦議会の決議を受けています。尾崎さんは、ポトマック河畔を訪れ、自身が寄贈した桜の木を見て、歌を詠まれています。

「ポトマクの 桜をながめ 月に酔い 雪をめでつつ 我が身終へなむ」






Sunday, April 3, 2022

もう一つの桜の名所:メリーランド州モントゴメリー郡ケンウッド(Kenwood)

今年は、 1912年に当時の尾崎東京市長がワシントンDCに3020本の桜の木を贈って110年を記念する年です。桜が植えてあるタイダルベイスンで日本からの贈り物を堪能している多くの方々の姿を見て、尾崎東京市長をはじめ桜の寄贈に携わった日本の方々、そして日本からの贈り物を今日まで大切に育て、守ってきたアメリカの関係者の方々に心より深く感謝しました。

アメリカの関係者の方々が、戦争中も戦後も日本からの贈り物を大事に守り育てきたわけですから、感謝の念に堪えません。


実は、ワシントンDC近郊に、知る人と知る桜の名所があります。それは、メリーランド州モントゴメリー郡ケンウッドという場所です。同郡のベセスダとチェビーチェイスに隣接する街です。

ケンウッドには、およそ全ての家に桜の木が植えられています。これは、1930年代と40年代に地元の土地開発者が、将来の住宅購入者を惹きつけることを狙ってこの街を魅力的にするために桜を植えたそうです。今ではこの街に1200本以上の桜が植えてあります。

全ての家に桜の木が植えてあるのですから、満開の時のケンウッドの美しさは圧巻です。

この桜のシーズンは、ケンウッドでは路上駐車は禁止されています。美しい桜と豪邸を楽しみながら多くの人が街の中を練り歩いています。

私も、今年もケンウッドの桜を満喫しました。同じ桜を見て感動している地元住民や観光客の姿を見て、なんだか嬉しくなりました。



         ケンウッドの桜並木

桜は本当に心を平和にし、人と人とを結びつける力があると思いました。

桜の花言葉の一つに「精神美」があります。桜には、「美しさ」と「はかなさ」がありますが、翌春には必ずまた美しい花を咲かせるという「再生」という意味もあるかもしれません。

日米は、「友情」を結びましたが、いっとき、激しく戦い合いました。しかし、戦後は、「和解」をし、再び「友情」を育み、今では、揺るぎない「友情」を深めています。「桜」はまさに「日米の友情」を象徴する生きるシンボルだと思います。

Monday, March 28, 2022

ワシントンDCの桜

 先週、ワシントンDCのポトマック河畔(タイダル・ベイスン)の桜が満開でした。3月22日(火)夕方と3月25日(金)早朝に鑑賞してきました。

ポトマック河畔の桜並木は、世界の名所の一つになっており、この桜を堪能するために、多くの人で賑わっていました。鑑賞している人々は老若男女で多様性に富んでいました。同じもの(桜)で感動している彼らの姿を見ると、桜が本当に人々を結びつけているんだなと感じました。

当地の人々を感動させているポトマック河畔の桜は、110年前に当時の尾崎東京市長からワシントンDCへの贈り物であることは有名です。1910年に2000本の桜をワシントンDCに贈りましたが、到着した時には、桜が害虫に汚染されており、焼却を余儀なくされました。

その2年後の1912年、尾崎東京市長(兼衆議院議員)は、再び桜3020本を贈りました。横浜からシアトル経由で1912年3月26日にワシントンDCに到着。翌3月27日にポトマック河畔で式典が行われ、ヘレン・タフト大統領夫人と日本大使珍田(ちんだ)子爵夫人最初の2本の桜の植樹を行いました。この日から数えて今年は110年というわけです。実は、この2本の木は未だに生きており、それは美しい花を咲かせていました。

このように、多くの人々を感動させるポトマック河畔の美しい桜並木は、日米親善の生きる証でもあります。

世界に目を向けると、現在、ウクライナは大変なことになっています。桜の美しさを鑑賞できる平和のありがたみを感じるとともに、全世界の人々が安心して桜の美しさに感動できるような世界になることを願うばかりです。

 





















Saturday, March 26, 2022

アメリカで1人で生きていく準備

妻は、11月23日に永住者としてアメリカに入国。本年8月からは、メリーランド州から少し離れたある州の私立大学の大学院に通う予定です。一方で、私は、本年夏には東京に異動になる可能性があります。


私が東京に転勤で帰ることになると、妻は、本年8月からアメリカで1人で生きていくことになります。そのためには、銀行口座開設、アパート契約、光熱費の契約、テレビやインターネットの契約、免許証の取得、車の購入、納税手続きなど、全て自分で行う必要があります。


妻とは、結婚後、カリフォルニア州ロサンゼルス市1回、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン1回、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ライ市1回、メリーランド州モントゴメリー郡ベセスダ市1回ほど一緒に生活してきましたが、賃貸住宅、車、光熱費、インターネットなどの契約は、全て私名義で行ってきました。


しかし、本年8月からは違います。妻は、全て自分の名義で行う必要があります。


2002年にロサンゼルス市に住んでいた頃、妻はソーシャル・セキュリティ・カード(=ソーシャル・セキュリティ番号)を取得しました。同じ時期に、クレジット・カード(アメリカン・エクスプレス・カード)も自身の名義で取得できました。それ以降、妻は、買い物は全部自身のクレジット・カードを利用するので、妻のアメリカにおけるクレジット・ヒストリーはかなり高い評価となっています。


今年に入り、妻は、自身の銀行口座を開設しました。その際、銀行が発行するクレジット・カード(VISAカード)も取得しました。これでアメリカのクレジット・カードは、AMEXとVISAカードを持つことになり、生活には困らないでしょう。


今週、私の名義となっている2台の車のうち1台(2010 Lexus RX 350)を妻の名義に変えました。まず、3月21日(月)にメリーランド州のMVA(Motor and Vehicle Administration)が指定する修理工場で車検を行ってもらいました。車検後、所要経費262.78ドルを払い車検証をもらいました。


3月24日(木)には、メリーランド州ケンプ・ミルにあるMVA(Motor and Vehicle Administration)に行きました。そこで、車両登録申込書、私の車両権利書(Vehicle Title)、車検証、妻の免許証を見せ、必要な手続きを行いました。妻は、最後に345ドルを支払い、その場で新しいメリーランド州のナンバープレートを入手しました。


345ドルの内訳は、車両権利関連費(Title Base Fee):100ドル、車両登録料(Registration Fee):187ドル、図柄入りナンバープレート(Vehicle Plate Fee):20ドル(注)、税:38.40ドルです。

(注)今回妻が選んだナンバープレートは、チェサピーク湾の図柄が入った特別なナンバープレートで、このプレート取得のために払った追加料金20ドルは、チェサピーク湾の環境を守るためのチェサピーク湾基金(Chesapeak Bay Trust)に寄付されることになります。


今回、車の所有権を私から妻に移行するだけで、計607.78ドルもかかったことになります。しかし、妻は、グリーンカード、ソーシャル・セキュリティ番号、メリーランド州の免許証、銀行口座に加え、自分名義の車を持ったことになり、今夏からアメリカの大学院に通う準備は整ったと思います。


Thursday, March 24, 2022

アメリカの大学のスプリング・ブレイク/ Spring Break(≠ 春休み)

長女は今週から大学が「スプリング・ブレイク」に入り、今週月曜(3月21日)から大学の親友の両親が所有するハワイ州オワフ島東部にあるカイルア市の別荘で、大学の友達8人と優雅に過ごしています。ビーチが目の前にある大きな別荘で、敷地内に両親の家とは別の「離れ」のゲストハウスが二つあり、それぞれのゲストハウスは寝室が4部屋もあるそうで、信じられないくらい広大な敷地なんだそうです。お隣さんの別荘は、なんと元プロレスラーで今ではハリウッドスターになったドウェイン・ジョンソンさんの別荘とのこと。

次女は、高校の「スプリング・ブレイク」中は寮から出たいということで、ハワイ州オアフ島ホノルルのホテルで同級生と過ごしています。長女は、ボストンから到着した3月21日の夜は、次女のホテルに泊まりました。

さて、この「スプリング・ブレイク」ですが、アメリカの大学は3月後半に1週間ほどある休みで、アメリカの大学生にとっては単なる「春休み」とは異なる意味を持っています。


「スプリング・ブレイク」は、第二次世界大戦前にアメリカの北東部のコルゲート大学の水泳部がフロリダ州フォート・ローダーデールに合宿したことが始まりのようです。「スプリング・ブレイク」の場所は、暖かい場所である必要があるので、フロリダ州の都市に北東部や中西部の大学生が集まるのは、至極自然なこととなります。


1960年、フォート・ローダーデールを舞台にした映画「Where the Boys Are(注1)」が公開され、「大学の春休みをフロリダ州のフォート・ローダーデールで過ごすことが、粋なスプリング・ブレイクの過ごし方」というイメージが出来上がったのでしょう。

(注1)https://youtu.be/tKyZKNNWngo


大リーグのニューヨーク・ヤンキースも1962年から春季キャンプをフォート・ローダーデールで行うようになりました。ヤンキースは、この街での春季キャンプを1995年まで続けました。


カリフォルニア州の大学生にとり、フロリダ州は遠すぎます。また、ビーチは日頃から行っていることもあり、彼らが選んだ「スプリング・ブレイク」の場所は、海のない砂漠の街「パーム・スプリングス」でした。1963年に「Palm Springs Weekend(注2)」という映画が大ヒット。西海岸の多くの大学生が「スプリング・ブレイク」は「パーム・スプリングス」を目指すようになります。

(注2)https://youtu.be/2SBu08Xdb7k


70年代に入ると、ヒッピーなどリベラルなアメリカの大学生が、フロリダ州でより多くの自由や開放感を求めるようになりました。


80年代には、「The Beach Girls (82年)」、「Spring Break (83年)(注3)」、「Where the Boys Are (84年)」などの映画が公開され、「スプリング・ブレイク」=「大学生がフロリダ州でパーティ三昧で弾ける」とのイメージが出来上がりました。

(注3)https://youtu.be/d02f2Sx88u4 


私が経験したスプリング・ブレイクは、スタンフォード大学留学中の86年は、カリフォルニア州「パーム・スプリングス」、USC留学中の90年も「パーム・スプリングス」、インディアナ・ロースクール留学中の91年は、フロリダ州「パーム・ビーチ」で過ごしました。その理由は、「パーム・スプリングス」も「パーム・ビーチ」も、留学中の大学で親友になったアメリカ人の親が広大な別荘を持っていたからです。今、ハワイ州オアフ島カイルアに滞在している長女と同じです。「スプリング・ブレイク」で私がやったことは、毎日昼すぎに起きて、次の日の明け方までビーチやプールでお酒を飲み続けたことでした。今となってはよい思い出です。


さて、時代は変わり、最近の「スプリング・ブレイク」の人気の場所はどこなのでしょうか。90年代までは、上述の通り、カリフォルニア州「パーム・スプリングス」かフロリダ州「フォート・ローダーデール」、「デイトナ・ビーチ」、「パナマ・シティ」などでした。


今では、「スプリング・ブレイク」を過ごす場所も多様になっているようです。上述した場所以外では、フロリダ州「タンパ」、「マイアミ」、ネバダ州「ラスベガス」、ルイジアナ州「ニューオリンズ」、テキサス州「サウス・パドレ・アイランド」などが人気のようです。外国では、メキシコの「カンクーン」、「カボ・サン・ルーカス」などでも多くの学生が「スプリング・ブレイク」を過ごしています。


長女も次女も、たまたまハワイ州オアフ島にいます。「スプリング・ブレイク」の最後の夜となる今週の土曜は、長女は次女のホテルで姉妹で一緒に過ごすようです。


親としては、娘たちが、この休みで英気を養って、残りの学期を充実したものにしてほしいと願うばかりです。