Saturday, November 30, 2019

米国の感謝祭

一昨日は、感謝祭。うちは七面鳥は大きくて料理するのに時間がかかるし、家族4人でも木曜から日曜まで毎日食べことになり飽きてしまうので、代わりにチキンを食べています。

過去には37年来の付き合いのカリフォルニア州フレズノ在住の元ホストファミリーの家でゆっくりしたことは何度もありました。典型的なオールアメリカンの御家庭で、孫を含む家族全員青目で、お米を食べたことがありません。木曜から日曜までフットボールを見たり映画を見たりしながら毎日七面鳥を食べるのは流石に飽きます。

オーブンを使ったチキンの丸焼きは結構簡単です。まずはチキンを水洗いしないこと。オーブン用のトレイにアルミホイルフォイルを貼って、ペーパータオルで拭いたチキンを置き、定番の塩胡椒をふりかけます。
次にレモンの皮、ガーリック、ローズマリーを細かく砕き溶かしたバターに混ぜます。オリーブオイルもタップリと。それらをブラシでチキン全体に塗ります。
チキンの中には半分に切ったレモンと玉ねぎを2個ずつ、ガーリックも。
チキンの周りには大きめに切った玉ねぎ、人参、ジャガイモなど。
あとはオーブンで華氏425度で45分間焼きます。
一旦取り出して、トレイにたまっただし汁をチキン全体にスプーンでかけます。
そしてもう一度オーブンに戻し20分少々焼きます。これで完了です。
そしてトウモロコシ、カボチャ、スクワッシュ、ナッツ、そしてクランベリー・ソースはマストです。

オーブンでチキンを焼いている間、メイシーズ感謝祭パレードをテレビで観ます。今年で93回目となるパレードは、全米で最も有名な感謝祭パレードで、観衆は350万人、テレビ視聴者数はなんと5000万人だそうです。パレード参加者は8000人。フロートは約30台。マーチングバンドは11隊。そしてパレードの目玉は巨大パルーン、特にキャラクターバルーンです。今年はスヌーピーが復活することが話題になっていました。

さて、米国の感謝祭ですが、11月の第4木曜日と決まっています。日本の盆と正月が合わさったようなもので、遠く離れて暮らしている家族も、感謝祭の日には家族と共に過ごすために家に帰ろうと努めるようです。

米国では、感謝祭の祝日は、今からおよそ400年前、米国のイギリス植民地時代の初期に、感謝の祝宴として始まりました。1620年、「メイフラワー号」と呼ばれる船が100人を超える人々を乗せてイギリスを出発し、大西洋を越えて新天地アメリカに向かいました。乗船者の大半は、「分離派」と呼ばれるキリスト教の一派に属する人々で、英国国教会の信条を受け入れることができずにそこから分離したグループでした。分離派はイギリス国内で迫害を受け、信仰の自由が与えられていたオランダに移り住んでいましたが、その後、彼らはアメリカ大陸に新しい植民地を築くことをイギリスから許されるとともに、経済的な援助も受けました。

当初、彼らはアメリカ大陸の南岸に沿った地域で、他の入植者の近くに定住するつもりでしたが、途中航路がそれたために、予定よりもはるか北に位置する、現在のマサチューセッツ州ケープコッド湾に上陸しました。

1620年12月21日、彼らは到着した湾岸で、無人となったアメリカ先住民の村を見つけ、そこに居住し、自分たちのこの新しい土地をプリマスと名付けました。新しい入植地での1年目は大変厳しいものでした。彼らは自らをピルグリム(北アメリカに移住し植民地を築いた清教徒の一団)と呼んでいましたが、その大半がイギリスの都会の出身であり、荒野で暮らす術を知りませんでした。彼らの多くは森を恐れ、狩猟の腕もありませんでした。イギリスでは狩猟は貴族だけのものであり、一般の人々にとっては、獲物を銃で撃つことは罰金や処罰の対象でした。また、彼らがこの地に到着した季節は多くの農作物を育てるには遅すぎた上に、彼らが持ち込んだ植物は新天地の気候に合いませんでした。イギリス産の小麦の種は、植民地の土壌では発芽しませんでした。最初の1年で植民地の住民の半数が病死し、もし先住民のワンパノアグ族の助けや指導を受けることがなければ、全滅していたと言われています。

1621年3月、ワンパノアグ族首長に率いられた一団がピルグリムの入植地を訪れました。彼らの目的は、入植者との協定を結ぶ相談をすることでした。入植者は、ワンパノアグ族を敵対する部族から守ることと引き換えに、ワンパノアグ族の土地にとどまることを許されることになりました。ワンパノアグ族たちは入植者に、彼らがそれまで知らなかったトウモロコシという食物の育て方を教え、新しい土壌でよく育つ農作物を教えました。また、魚の釣り方、貝の採り方、森の中を音を立てずに移動して獲物を狩る方法なども教えました。

ワンパノアグ族は1年を通じて、土地がもたらす多くの恵みに対する感謝の祭事を行っていました。そしてピルグリムもまた英国で、収穫のときに感謝祭を行っていました。1621年の秋までには、入植者たちは新しい土地で暮らしていくことを学び、トウモロコシ、大麦、豆類、そしてカボチャなどの豊かな収穫を得ました。

多くの恵みへの感謝のために、彼らは感謝の祝宴と祈りのための特別な日を計画しました。彼らはワンパノアグ族を招待し、90人のワンパノアグ族は、入植者の収穫物と一緒にあぶり焼きにするために七面鳥と鹿肉を持って宴に参加しました。それ以外にも、貝や魚、うなぎ、コーンブレッド、スクワッシュ、ナッツ、クランベリーなどさまざまな食物が祝宴を飾りました。入植者たちはワンパノアグ族から、クランベリーやいろいろな種類のトウモロコシやスクワッシュの料理法を学んでいました。この最初の感謝祭には、ワンパノアグ族がポップコーンを持ってきたとも言われています。

その後も入植者は、秋の収穫を感謝の祝宴によって祝いました。1776年に米国が独立を宣言した後、議会は国全体が祝う感謝の日を設けることを提言しました。そしてジョージ・ワシントンはそれを11月26日とすることを提案しました。感謝祭が法定休日になったのはそのはるか後のことです。これは、1800年代半ばに活躍した著名な編集者サラ・ジョセファ・ヘイルの努力によるところが大きいと言われています。彼女は長年にわたり、感謝祭を国の祝日にする運動をしていました。南北戦争の終盤の1864年になって、彼女はリンカーン大統領を説得し、大統領は11月の最終木曜日を公式に感謝祭として定めることを宣言しました。。1941年には、11月の第4木曜日が連邦法定休日として宣言され、ほとんどの職場や学校は4連休となりました。

感謝祭の日付は年によって異なります。そのため大統領は毎年、その年の日付を法定休日として宣言する必要があるがあります。宣言の中で大統領は、1621年にプリマスで行われた最初の感謝祭の歴史的な行事とその意義に触れ、それを称えています。

感謝祭の分かち合いの精神を受け、今日では市民グループや慈善団体が、恵まれない人々、特にホームレスの人々に伝統的な感謝祭の食事を提供することが慣習となっています。各地域では、休日の期間中、恵まれない家庭のために、フード・ドライブを行って食糧を集めています。

七面鳥、トウモロコシ、カボチャ、スクワッシュ、ナッツ、そしてクランベリー・ソースは、最初の感謝祭を表すシンボルとなっています。これらのシンボルは、ピルグリムとメイフラワー号の絵と同様に、感謝祭の休日の飾りやカードに描かれています。また、ドライフラワーや色とりどりのひょうたんや「インディアン・コーン」と共に、オレンジや赤、茶色や黄色といった秋の色も、テーブルやドアの飾りによく使われている。これらはすべて、収穫と秋の季節を表すものです。

我が家は、七面鳥以外は定番の感謝祭料理です。毎年、ピルグリムとアメリカ先住民の心温まる協力に思いを馳せながら、秋の収穫に感謝しつつ感謝祭ウィークを過ごしています。



Monday, November 25, 2019

長女のアメリカの大学受験の途中経過(11月下旬の状況)

今年アメリカの大学受験の長女。

繰り返しになりますが、アメリカの大学受験は、日本のような一発試験とは異なり、GPA(高校4年間の全教科の成績)、SAT(長女はACT)に加えて、スポーツ、文化活動、ボランティア、インターン、そしてエッセイと、生徒の人間としての包括的なポートフォリオをよく見せる必要があります。日本のような一部の人間の能力(偏差値?)の客観的試験ではない分、不安だらけです。

人間の総合力を示す必要があります。そのため、家族によっては、小学生の時から、年に何十万円程度で「受験コンサルタント」を雇って、アイビーリーグに入るためのフォートフォリオ作りにいそしむ人もいます。

というのも、最近は、親が卒業生だからといって、「レガシー枠」で子供が簡単に親の大学に入れない傾向が出ているからです。複数のイェール大学卒の私の親友のお子さんは子供はイェール大学に入れませんでした。1人の親友はイェール大学にこれまでに億近い献金をしているにもかかわらずです。

余談になりますが、アメリカ人として学部生としてアイビーリーグに入ることは、本当に大変なことなんです。学校の成績(GPA)は高校4年間すべての教科で満点、SATも満点で初めて競争のスタートラインに立てるのが、ハーバードやイェール、そしてスタンフォードなんです。もちろんスポーツ枠は別ですが。

外国人としては外国人枠がありますので、日本人であれば、ある程度優秀で英語が相当できれば、アメリカの優秀な大学であっても合格の可能性はより高くなります。というのは、日本人で高校卒業後にアメリカの大学に入学を希望する方は中国人やインド人とく比べて極めて少ないからです。アメリカの大学は、多様性を極めて重視しており、「外国人学生」の「国籍の多様性」は「売り」なんです。したがって、もしアメリカ国籍を持たない日本人のお子さんが英語が相当できて、日本やアメリカの高校の成績やSATの成績がよければ、そのお子さんの受験者としての希少価値は相当高く、アイビーリーグでも合格する確率が高くなります。また、外国人受験者は、米国連邦政府の奨学金を得ることはできず、年800万円から900万円の授業料+寮費を全額払うため、大学からすると経営的にはお得意様というわけです。

長女はアメリカ国籍を持っているため、制度上、「日本人」として「外国人枠」でアメリカの大学に入ることはできません。親が生粋の日本人であっても長女は「アジア系米国人」として受験することになります。これは長女にとり不利なんです。なぜなら、全米にアジア系アメリカ人で優秀な学生はごまんといるからです。長女が「日本人」であることや「日系米国人」であることは全く考慮されません。一律「アジア系米国人」として見られるため、GPAやACTは満点でない長女は、どうしても「満点のアジア系米国人群(中国系やインド系に多い)」の次のレベルで争うことになります。

大学は、高校の成績やACTの成績以外に課外活動やボランティ活動などを考慮しますが、長女は、スポーツは女子バレーボール、文化系活動はステージ・クルーであり、ある意味一般的な活動です。長女の課外活動の「売り」は、女子では珍しいトロンボーンを中学生の時から吹いていることくらいです。

話は戻ります。長女は、他の子と同様、20校弱の大学を受験します。大学受験といっても、日本のように大学にいって試験を受けるわけではなく、行きたい大学に共通のアプリケーションをオンラインで送付するだけです。送付料は1校大体75ドルから80ドルとばかになりません。共通のアプリケーションではエッセイは1つだけ書くのですが、大学によっては1つから4つ程度の追加エッセイが求められます。


これまで長女がアプリケーションを提出した大学4校は追加エッセイが必要な大学で、11つのエッセイを書いています。5校は追加エッセイが不要な大学でした。計9校にアプリケーションを送付したということです。

今後アプリケーションを提出することを考えている大学はあと10校あります。追加エッセイは少なくとも1つから4つ必要となりますので、高校の成績を保ちながら今後10から40ものエッセイを書くことは、長女としては相当負担になっているようです。長女は本当に大変そうで親としても心苦しいですが、心を鬼にして、エッセイを書き続けるよう、毎日叱咤激励しています。

Saturday, November 23, 2019

24-7-365

アメリカに16年間住んでいると、その時々に流行り言葉があります。

気のせいでしょうか、最近ラジオで、「24-7-365」というフレーズを本当によく聞きます。

24-7-365は、「twenty four seven, three sixty five」と発音しますが、「24 hours a day, seven days a week and 365 days」という意味で、1日24時間、1週間毎日、年間無休でいつでもお店は開いている、という時に使います。英語の表現では、「at anytime, all year round」と言う意味です。

24-7-365という言葉は、結構新しい表現だと思います。
労働者の勤務時間は昔から9時から5時までの8時間が一般的で、昼食を入れるので8時から5時までとなることが多いようです。ジェーン・フォンダ主演の「9時から5時まで(9 to 5)」という映画(1980年制作)もありました。また、アメリカはキリスト教の信者で建国されましたから、日曜日は働きませんでした。今でもブルーカラー及びホワイトカラー労働者は、基本的に土日はお休みです。

アメリカで「7-Eleven」のお店が登場したのは1946年です。朝7時から11時までのお店で、当時としては前例のない営業時間のため
衝撃的であったようです。その後「7-Eleven」ではすぐさま24時間営業の店が登場しました。

話は24-7-365に戻りますが、テレビやラジオの広告で、「twenty four seven」又は「twenty four seven, three sixty five」というフレーズをよく聞きくようになったのは、キリスト教が衰退しているからだと言う人もいます。

1980年6月にテッド・ターナーにより設立された世界初の24時間放送するニュース専門チャンネルが登場した時は、度肝を抜かれたことをよく覚えています。

日本人は残業も厭わず勤勉だと言われていますが、効率性が低いと批判されています。アメリカ人は、欧州諸国の人と比べて、本当によく働くと感じるのは私だけでしょうか。

Saturday, November 16, 2019

次女、ボーディングスクールを受験

アメリカの高校の最終年であるシニア(G12)の長女がアメリカの大学を受験するこの時期に、3学年下、つまり高校の初年度となるフレッシュマン(G9)の次女が、ボーディング・スクールを受験しました。

ボーディング・スクールは、所謂寄宿学校。次女は既にライ高校のG9ですから、合格すると来年9月からG10としてボーディングスクールに行くことになります。ということは、来年9月から、長女も次女も家を出ることになります。

その寂しさよりもきついのは、2人の授業料と寮費。大学は寮費も入れて年間7万ドルから8万ドル。年間900万円です。次女のボーディングスクールは年5万ドルから7万ドル。年間600万円から800万円です。

次女はボーディング・スクールを4校受験しました。受験といっても、共通のアプリケーションを送付し、面接を受けるだけです。アプリケーションにはエッセイもあります。また、これまでの中・高の成績や学校の先生の推薦状も必要です。SSATという共通試験の結果も送付します。大学受験のプロセスとそっくりです。

次女が受験したボーディング・スクールは、全米で10(ten)スクールというトップ10の寄宿制高校のうち4校です。アプリケーションを含む必要な書類を提出後、ある週末に1校、次の週末の3連休を利用して3校を訪問し面接を受けに行きました。

巷にボーディング・スクールにおける受験者の面接と親の面接の質問の例がごまんと出回っています。次女はしっかり準備して面接に臨みました。1校はサマースクールに通った学校で、面接官がたまたまその時の数学の先生でしたので、面接時間は所要15分程度で終わりました。

親だけの面接もありましたが、4校とも予想に反し、「あなたの子供がこの学校に通う事で、何を得ることを期待するのか。」等の質問は全くなく、すべて「何か質問はあるか。」というものでした。

各学校を訪問して驚愕したことは、キャンパスの大きさと充実した施設です。巨大な図書館、アイスホッケーリンク、水球専用やダイビング専用プール、アメフト専用スタジアム、野球専用、フィールドホッケー専用フィールド等、まさに大学並みです。

18世紀後半に開校した学校が多く、歴史と威厳を感じました。
次女は合格しても、フィアナンシャル・エイドをもらわなければ通えないので、様々なスカラーシップやファイナンシャルエイドを得る手続きを進めています。

どうなることやら。