2023年6月3日に、次女の高校の卒業式がありました。
アメリカのボーディングスクールに通っているため、私は日本から、アメリカで永住者となり、現在大学院生の妻は、アメリカで居住するある州から、タフツ大学に通っている長女はボストンから、それぞれ次女の高校のある都市に駆けつけました。
この都市はとても暖かく、服装も軽そうで良いので、荷物も少なく移動は楽でした。
次女の高校は、1863年創立の歴史ある名門私立高校。幼稚園から12年生までの1800人の生徒がいる私立の男女共学校で、米国聖公会に加入しており、理事会によって管理されています。
卒業する女子生徒は、全員が卒業式用の純白のドレスをオーダーメードで作りました。ドレス自体は数百ドルですが、全員がこのドレスと頭にはティアラをつけ、生花もかざします。男性の卒業式用の服は白シャツと黒色のズボンとガウンでした。
卒業式当日は晴天。非常に暖かく、屋外のフットボールスタジアムで卒業式が執り行われました。
カソリック系の私立高校であるため、冒頭、神父が何度も祈りを捧げました。
理事長や校長の挨拶のあと、成績優秀者(Cum Laude)の表彰がありました。
この「Cum Laude」というのは、ラテン語で、「優秀な」という意味です。アメリカでは、大学や高校で、GPAや取得単位によって「優秀賞」の基準が決められており、ラテン語の場合、成績の良い順に、「Summa Cum Laude」、「Magna Cum Laude」、「Cum Laude」となっていることが多いです。次女の高校では、「Cum Laude」しかなく、GPAの成績が、上位20%の人に与えられる称号のようです。
次女は幸い、「Cum Laude」として表彰されました。表彰といっても、生徒の名前と進学する大学名がアナウンスされると同時に、スタジアムに設置された二つの巨大スクリーンに、生徒の大きな顔写真と名前、そして大学名が映し出されるだけです。それでも親としては、ビデオを撮りながら、内心大喜びしていました。「Cum Laude」のメダルは、卒業証書を手渡される時に一緒にもらいました。
その後、卒業証書授与式が行われました。手渡すのは高校の理事会の理事長です。卒業生全員に手渡されるのですが、この時も、卒業生の名前が呼ばれたら、巨大スクリーンに生徒の顔と名前が映し出されました。生徒の名前が呼ばれるたびに、生徒の家族・親戚や友人が大声や奇声をあげて祝福していました。
次女の場合、長女と次女の後輩がしっかり祝福の奇声をあげていました。
理事長から卒業証書を受け取ると、同じステージ上で近くに立っている校長先生とのツーショットの記念撮影がありました。
アメリカの高校の卒業式で、卒業生による卒業証書の受け取り方にはびっくりです。日本の場合、校長先生からきちんと両手で受け取り、首を垂れるのが礼儀とされます。アメリカの高校では、卒業生の卒業証書の受け取り方はまちまちです。多くの場合、片手で受け取る人が多く、中には、片手で「もぎ取る」卒業生もいるようです。次女の高校の卒業式でもそうでした。しかし、文化が違うのか、理事長もニコニコしているだけです。日本のように、「(偉い)理事長や校長先生から、(低い立場の)卒業生が卒業証書を授かる」という発想や考えではないのでしょうね。
アメリカ人にとり、高校卒業は、ある意味、大人への階段に登るための関門であり、卒業証書は自身が勝ち取った人生の一つのachievement(功績/成果)である、という発想なのでしょうか。
卒業式のあとは、隣接するもう一つのフットボールスタジアムで、卒業生が家族・親戚・友人と合流し、祝福されるイベントがありました。
その後、夜8時から翌朝8時まで、高校の中で、映画鑑賞とパーティがあったそうです。これは次女のボーディングスクールの伝統行事のようです。
高校の卒業式といえば、長女の場合、コロナウィルス感染症が世界的に広まった2020年6月であったので、卒業式はありませんでした。プロムも中止。本当にかわいそうでした。その代わりに、6月のある日、ライにあるPlayland Parkという有名な遊園地の駐車場に卒業生と家族が車で集合し、何組かに分かれて、パトカーの先導で、ライの街の中を車でパレードしました。街中の住民が子供から大人まで、プラカードを掲げて拍手をしたり、笛を吹いたり、声をかけ、卒業生を祝福してくれました。4年間ライに住んで、初めてコミュニティのあたたかさを実感しました。長女は、コロナが少しずつ収束してきたタフツ大学2年生の時に、タフツ大学の配慮で、高校時代、コロナの影響でプロムが中止になった学生を対象に、タフツ大学主催のプロムが行われ、そのプロムに参加しました。タフツ大学も粋なことをするものだな、と感心したことを覚えています。
話は戻りますが、次女は、無事に高校を卒業しました。思えば、次女がニューヨーク州ライ市のミドルスクールを卒業する前に、「高校はボーディングスクールに行きたい」と言い始めた時、親として最初は本気で受け取らなかったのですが、次第に次女が本気であることがわかったため、ライ・ハイ1年生時になって、急遽転入できるボーディンングスクールを探しまくり、面接にいきました。しかし、受験した全てのボーディングスクール(全米上位4校)に補欠合格となりました。焦っていたところ、運よく、今のボーディングスクールに破格な奨学金付きで合格して、めでたく転向できたことは、つい最近のことのようです。
転入したのは高校2年時ですが、アメリカの高校は4年間ありますから、日本でいう高校1年の時です。次女は、若干15歳でした。コロナ禍で厳格な隔離政策の中で、一人で飛行機を乗り継いでボーディングスクールに引っ越しました。寮生活は楽しいこと嫌なこと、色々あったようですが、それも今となっては、大人への道で避けられない経験であったと思います。
この3年間はあっという間でした。あっという間に、長女も次女も、私の知らないところで、いろんな経験を積んだと思います。彼女たちの人生の次の章が楽しみです。